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灰野敬二 トーク・エッセー 5

音楽評論家っていうのはね、たぶんギター弾いてたと思う。普通の奴より音楽が少しは好きなんだから。露骨に言うけど途中で挫折してるの、みんな。そういう人間も、それ以前に今のほとんどのミュージシャンもね、独創的な音楽で自分をアピールしたかったの初めは。ところがだんだん挫折していって、自分の位置とかを作り出すと、露骨に言うけど、僕のことをすごいって言ってしまえば楽なの、やらなくてすむんだも。そこでリスクをしょわないってことは、すごいって言ってしまうことだし、これは問題発言かもしれないけど、キリスト教とか宗教と全く一緒。みんなジーザスに、イエス様に憧れたり、人がイイことをしているの見てイヤだって奴はまずいないと思うのね。イイことってやっぱりみんなしたいのよ。できなくなるタイミングっていうのはある。それは具体的に言うならば、自分の位置だよ。それを言うことによって百人に睨まれるのは怖いわけ。
 今日も電車に乗ってて、若い娘が席を譲ったのお年寄りに。それはすごくイイことなんだよね。ところがすごい照れてんだよ。なんで照れなきゃいけないのか、照れるからできなくなっていくんだよ──。照れるべきじゃないんだよね。イイことをした訳じゃない。座ることのできたお婆さんは「どうもありがとう」って言って感謝してる。それが位置なんだ。人の目を気にしなきゃいけない。それはここでダメ、つまらないって言ったならば、評論家連盟があるかどうかわからないけど、そっから睨まれるわけでしょ。問題発言になるんだろうね。
 確かに日本が「村」「島」っていう感覚をすごく持つけど、誤解されたくないけど、足を引っ張るとか、他人の批判をするとか、それはどこにでもあると思う世界中。ただ批判される元ね。例えば正しいって思って、正しいって言い切った時に批判されるのはヨーロッパとか日本じゃないかもしれない。日本人の場合は、まだこれが正しいと思えるものが形成されていない。もう、か、前からかわからない。だって全て情報で知らされてる訳だから、自分で見つけて美味しいって言える人ほとんどいないも。そのことの方が怖い。例えば、実際に向こうの40歳の人が来てくれて、僕の音楽を嫌いな人だってもちろんいる。一回聞いて冗談じゃない、これはロックじゃないって思う奴はブーっていう訳だし。ただしそれはハッキリしてるよ。自分のものを持ってると思うよ。アメリカに住んでる人に聞いてビックリしたんだけど、お母さんが「他の子と違うことやれ!」って言って子供育ててるって。そうしないと目立たないから。

灰野敬二 トーク・エッセー 6

アメリカでは)お母さんが「他の子と違うことやれ!」って言って育ててるって。そうしないと目立たないから。やっぱり、こんなこと言っていいのかわからないけど、イギリスから流されてきた彼らが、生き残る術だよね。押しのけるだよ。結局他人と違うことをやれっていうのは、他人を押しのけてでも自分が生き残れっていうことだから。ニュアンスは違うけど、そこにおいてのオリジナリティーはある。オリジナリティーってことに関して言えばね。それは俺たちと違うよ。学校でチーチーパッパってやったらみんな同じうた歌わなきゃいけない訳じゃない。僕の世代なんか特に、できるだけみんなと同じようにしなさいって育てられた訳だよ。
 表現っていう言葉にしても、何かを表に現すことでしょ。ていうことは、それは隠れてることだよね。ここの物がここに現れていたら現す必要はなくて、乱暴な言葉になるけど、どっかから引きずり出すとか、それこそイメージとしては闇だよね、闇とか、言葉でいうと陳腐になっちゃうけど神秘とかね。それをどういう形っていうか、見てもらおうとする訳、聞いてもらおうとする訳だから。そこにおいて、ちょっと話が飛びすぎるけど、僕の考え、ある人たちは考えてると思うけど、やっぱり現在の自分の身体なんか癒す必要なんて全然ない訳で、ズーッと流れ続けてる一種の、本来は一つだったはずの魂を癒そうということだと思うよ。
 僕は最近元気づけられたんだけど、ダライ・ラマ。ダライ・ラマは癒すことはできないってNHKで言ったんだよ。それ見てああやっぱりコイツいいやって。俺アイツ好きだから。アイツって言っちゃうけど、全然気取ってないじゃない。飄々として、人のいいオジサンなんだけど言う時はちゃんと言うのね。で、すごい面白い話があって、癒して下さいって来るんだって、人が。「えっ、私癒すことなんかできませんよ」って、仏教の国際会議の時に。ダライ・ラマが好きなのは悪戯っぽいんだよね。キュートなのよ、失礼だけど。それで、ある時に国際会議かなんかで、なんかここに皮膚炎ができたんだって、ラマさんが。それで「誰か癒せるか、会議が終わった後に私のこと癒してくれませんかねー」って、会議終わった後誰か湿布持って来たんだって(笑)。だからそんなもんですよってね。
 例えばだけど、(レコード店の)ヒーリング・コーナー入りたいなぁ。「癒すって何ですか?」って。癒しのコーナーがあるんなら、反対に癒せないかもしれないってコーナーがあってもいいかもしれない(笑)。打ってみなきゃしょうがない。みんな騙されてる。
 NHKで面白いテストをやってたんだけど、若い子とおじいさんに同じ音楽を聞かせてα派が上がるかどうかって。でもそれは好みなんだよ。歯医者さんとか病院ではよくヒーリング音楽かけてるじゃない、人によっては迷惑だよね。若い子なんかは、ジャガジャガとかラップとかをかけた方がやっぱりいいα派が出てきたっていうものね。おじいさんは、無理ジャン。それを一個一個検証していって、あれがいかにインチキかってわかるじゃない。その作業をやろうか。一個一個崩していけばいいんだから。
 例えば、喜多郎が砂漠で旅をしてあらゆる苦難を受けて、だから人が嫌がる音っていうのは全部わかるっていうけど、わかってるのかと。まずそれが罷り通るのがおかしい訳で。あとね、みんな癒されたいっていうけど、僕に言わせたらば癒されるほど痛んじゃないって言いたい。これもホントに罠で、自分が被害者意識でいる時っていうのは安全なのよ。加害者意識になった時に両方の悪い方が出る訳で、被害妄想と誇大妄想が両方出る訳だ。被害者意識させとけば安全なんだ。前から言ってる、パンクが出た時、あれはもう世界中の資本家のトップが大喜びして拍手したのは、彼らはあそこで遊ばせて暴れさせりゃいいんだも。あそこでエネルギーを放出させてそこでマスターベーション、って言い方はちょっと違うと思うけど、本人たちが体制に対して抗議をしているっていう部分を満たせてあげりゃ良かった訳だから。これも何回も言っててつまんないけど、それも後から暴露されてる訳だからね。それにトップといわれる奴がそれに乗っかった訳でしょう、セックス・ピストルズとか。あれレコーディングには一番いい訳じゃない。あれがたぶん最後の発売禁止だね。
 ああいうのは、イイ悪いは別にしてキレ者がいるのよ。キレ者がイイ方にいないのよ。やっぱりドラマ見ても最終的な結末っていうのは、俺たちはまだまだ見られないことで、途中にいる訳じゃない。そうすると悪い方のキレ者が仕切っている。実際にそうだよね。でも僕は諦めてないからね、とりあえず。微かにでも、ホントに一年に一人僕の音楽を聞いてくれる人がいるだけでできるから。でもお客さんの立場になれば、僕たちの音っていうのは、恐らくお腹が80%くらい膨れちゃうと思うのよね。そうすると、一年に1回や2回にならざるを得ないかもしれない。やっぱりこう、ワーワーワーワー行って騒げるところは、何となく行ってまた騒げるじゃない。これはどうしようもなく人間の本性としてあるから、やっぱり単純にメリットと考えて自分は責任取らなくていい訳だから。

灰野敬二 トーク・エッセー 7

 ワーワーワーワー言って騒げる所は、何となく行ってまた騒げるじゃない。これはどうしようもなく人間の本性としてあるから、単純にメリットと考えて、自分は責任取らなくていい訳だから。
 今言ったのは、そもそも聞く側って、たぶんポップスなんかを聞いている子たちは、2年もたてばCDは売っちゃうと思うんだよ。それはさっき言った生まれ出すこと、生み落とすことにこだわっているかどうかっていうことだけど、それと、客側が勝手なんだからやる側はもっと勝手にやらないとダメなんだよ。これが新しいことに段々変わるというより動いて行くんだから──。
 NYで僕は最後のムーブメントと思ってるんだけど、「NO NEW YORK」(以下NNY)っていうのがあったでしょう。あれだってお客さんがそこに来ていて、掛け声とかつまんねぇーとか、とにかく一方的なステージングじゃなくって、お客さんが一緒にたった10ドルでも絶っ対に楽しんで帰るから。5ドルであろうと。まぁ予定調和、普通の何万人も集められるポップというのは俺にはわからないけど、俺がいまだにこだわるロックの世界ではね、そういう奴等は、例えばロックをやってたとする。客がそこでヤジを入れてピッと止まるとか、チューニングが狂って次の曲をやらざるを得なかったとか、そういう何かもう、やらざるを得ないとかね、やろうと思ったとかじゃなくてならざるを得ない。事故だよね、言ってしまえば。表現ていうのは、さっき言ったリスクという言い方をすると、事故を怖がるなっていうことだから。僕はロックっていうものをそこまで捉えているわけ。
 いい結果ではないけど、ジム・モリソンがマスターベーションをステージでやったとか、ジミヘンが火を燃やしたとか、恐らくあの時点で誰よりもアヴァンギャルドだったはずだよ。どんな絵描きよりも、どんなフリー・ジャズの人よりも、アヴァンギャルドなんだよ。ギターに火ぃ付けてやってないんだから。ジョン・ケージもある曲でやってたかもしれないけど、公然と大衆の前だよね彼らは、少人数じゃないから。何でアイツらやったのかって言うと、やっぱり最後の抵抗として時代の流れから起きたのよ。本人達がどういう意識があったかわからないけど、やらざるを得なかった訳で……。
 NNYはヤジ入れたりとか、チューニングが狂っちゃったりとか、ガーと弾いたりすぐやんなくちゃいけなかったりして、そういうことを駄目な部分として捉えるんじゃなくて、それもよし、がNNYになったの。NNYっていうのは僕は同じ世代だから、ところが日本じゃそんなこと起き得ないのよ。「ロストアラーフ」をワーとやれば逃げていくか、石ぶつけるかでおしまいだから結局。
 CD聞いて同じ音を武道館行って聞いてという…決定的に問題なのは学校教育なの。はみ出ちゃいけませんよっていう。NNYの話に戻すと、結果として面白いのもできた訳。それを我々の観客からみれば受け入れて、一つの表現になった。そうすると彼らとしてはしめたと、これが違うんだよ。お母さんにあなた達違うことやりなさいよって言われて、自分達の才能なんかなかったのにその磁場の中で起こった訳じゃない。それが日本だと、4、5人が来てチューニング狂って、ギター演奏してた、事故だよなで終わる訳よ。
 メシアンの「世の終りのための四重奏曲」って、確か初演はピアノがボロボロ、クラリネットも壊れてた。チェロはたしか三本だったのね、譜面はちゃんとあったけど。そのことで現在の日本人の概念に立ったら演奏できない。あれはもう抵抗のものとしてやらざるを得なかった訳でしょ。そのパワーっていうのは、演奏家がロクな者がいなくったって、作曲としての、メシアンの表現として未だにどこにもない世界がある。それがリスクじゃん。リスクを追おうとしないも。だいたいリスクっていう言葉、日本語でなんだっけってね、そのことは既に僕にとって危険な訳じゃない。リスクとして自分が反応している訳だから。我々が日常で使うヘンな英語を、直訳でなく日本語で喋れる人がいったい何人いるんでしょうって言いたいよ。「テーブル」とか言っちゃう訳でしょ、机ってもう言わないじゃない。(コップを見て)コップはしょうがないか。

灰野敬二 トーク・エッセー 8

ほんとに日本人ってやっぱり特殊だと思う、僕から見て。人種っていうか、概念の持ち方だよね、いかに盗もうかっていう。こうね、ほんとに分析して、どうしようもないと分析しきってしまった後に何かできると思うよ。やっぱりみんな怖いんだも。 その評論家も面白い曲作ったかもしれない、コード、リズムにしても一曲くらいわね。落ち込んで、日本人ていうのは猿真似が得意だと。猿のように真似が得意なんだと。これは我々の血なんだから、オリジナリティーとかを突き詰めるとかは無理があると、そういう諦めの所から評論家って出てるんじゃないか。だってとてもいやすいも。時代に合わせていい訳だから。
 でも気を付けた方がいいってあえて言うけど、間章は自分の場所を作ろうとしたの。それは自分の場所っていうのは時間が立てば独裁になるの。こっちを巻き込もうなんてしなかったんだから、それはそれでいいって言う言い方をしていた。やっぱり同じ地点に立った時には、やだけどポップスがあるのよ。これとの関わり合い。昔言ったけど、ビーフハートでありながら、僕の日常をあらわすのはマレーネ・ディートリッヒがある。あえてビリー・ホリデイとは言わずにディートリッヒの歌がある。それは僕にとってお母さんのような音楽なのね、ディートリッヒの歌っていうのは。そのお母さんと言ってしまえば日常性だよね。日常性とロックにとっての一番の異端児キャプテン・ビブハート。これが両立していなきゃダメなのよ。
 僕がなんでパーカッションやるかっていうのは、何となく伝わってきていると思うけど、聞くことと見ることが同時に起きていて欲しいんだよ。舞踏であろうと音楽であろうとそれをひとつのもので放ってないとダメだと言い切るからね僕は。その時点で、今度はすべてにおいて行徳があるわけ。ちっちゃい音や大きい音があるように、日常性があったり、ひょっとしたら暴かれていない非日常性があるのね。これは日常性に非日常性が含まれてないから必要な訳じゃない。こんど日常性が非日常性を含ませることができたらこれは一番凄いことなんだ。そこで俺はポップスをやってるんだ、あえてというか。間章の悪口を言うつもりはない。たぶん僕が一番若い年齢で彼と接してると思う。でもかれは関与してる気がなかった。
 加害者はね、私は加害者ですって言った時に加害者じゃないんだよ。
 僕は自分が被害者だって思ったら大間違いだと、みんな加害者だろうって言っても、加害者を弁護したらばどうしようもないじゃない。加害者になって既に罠にはまってしまったんだも。その罠というのは言ってしまうけど、いわゆるアナーキーとか、そういう言葉に幻惑されてしまったとかドラッグに入るとか。だからさらに露骨な話になるけど、ソクラテスは凄いんだって。自ら毒を飲んでしまったじゃない。飲まなければ実証できないって、俺はやらないよ、でもリスクってそういうものじゃない。毒なんだよ、ドラッグなんて毒みたいなものなんだよ。命なんて賭ける必要ないのよ、命を賭けて風に装えるのよ。それがアナーキーって言葉で終われるの。僕は間章の捉え方は、位置としてはそうだよ、今いる評論家なんて論外だよ。そういう意味では彼は唯一評論したかもしれない。ただ気を付けきゃいけないのは、人っていうのは何かに憧れるんだよ。僕にとっては憧れるっていうことは既に表現者じゃないから。
 アルトーは憧れじゃない。その後からの人っていうのはみんな憧れなんだも、全部とは言わないよ。憧れていた人はやらざるを得ないじゃない。ゴッホなんて実は絵なんて描きたくなかったかもしれない。でも描かざるを得なかった。そういう人があまりにもいない。だいたい僕はロック、ロックが好きっていうのは僕がお世話になったという意味でロックだけど、ロックの良さを、持ち得た力をずっと生きてるけど、ロックがあそこでダメだったのはドラッグってことだ。いま日本が60年代の状況に近づいているというかすごく似てるの。それでいいっていうか、それを一番究極的とかいうバカな奴等が多いから。またその次のことは凄いということを言ってしまって、自分がやらないで済むから。

灰野敬二 トーク・エッセー 9

 〈アナーキー〉って言葉じゃないから――。
 例えばロックという言い方をするならば、またこれしか出てこないけど、ジム・モリソンとジミヘンがいて、どう考えたってアイツら一番凄いのよ。ギターであれ以上のこと誰もやってなかったのよ。悪いけど、僕デレク・ベイリーはやっぱり凄いと思うの。ある意味においては、あの時ベイリーさんが何してたかっていう問題もあるけど。やっぱり位置っていうのは大切なのよ。これは誤解されるかもしれないけど、30人の前でやるパワーと1万人の前でやるパワーは違う。それは両方なきゃいけないのよ。それを用いたのはジミヘンだと思うの。別にジミヘンがすごく好きではないよ。位置としてね、位置は必要なの。一回は百万人の前に姿を現して位置が生まれる。自分の位置ではなくて、自分が全体から見られるべき位置、そこでいわゆるもう無記名性になり得るの。それはジミヘンじゃなくて、あるやったことが重要でジミヘンの必要ではない訳。ただ音楽の中でそういう事実があった訳だから。
 また間章に戻すけど、評論家としてはいなきゃいけない位置だ。でもそれが音楽全てに対しての包容を持ち得たかということにおいて、マニアックで終われちゃうの。それはよく吉沢(元治)さんがよく言ってたけど、我々こそが武道館でやらなきゃいけないって。音楽やってんだから、一生懸命に。なんで一生懸命にやってる人間が、客30人で、家賃どうしようとか考えなきゃいけないのかって。その部分がなくなったならばパワーが落ちていく。もちろん武道館で30人になるよ、現実には。でもその部分を一万人の人にわかってもらおうと思わなければパワー出てこないよね。
 だって僕はplan Bでパーカッションやって、確かに聞こえるっていうか、音のとどく範囲は上まであって、階上から苦情が来るとかね。壊したような音を出したら、「どうしたの!」って来るでしょう。あそこまでうるさくしてたらお巡りが来るよね。でも気持ちとしては宇宙に放ってる。僕にとっては音こそ空気にいったん触れれば、これはもう全部と触れたことになる訳だから、自分の意識の拡がりを持てればね。だからジャンルということにこだわることも怖いし、音楽が何だっていうことも規定する、設定することも怖いけど、それ以前に何か一つだけに留まることが一番怖い。間のやり方にしても、やはりある所をつついてるだけなんだよ。
 赤軍が一人も犠牲者を出さなければもっと凄いことができたの。俺はけして肯定なんかしないよ。内ゲバなんてのはダメな訳。ある人もよく言うけど、人ひとり説得できないで何ができるの? 納得してもらうことはすっごく大変なんだ。でもそれを希望として持たなければ、だって自分たちが世界革命って言ってることは世界の人間を幸せにしようと思ってる訳じゃない。それがたった一人の人間、それも仲間と思った人間と、もめることはいい、ただそれを力関係で刺殺するなんて言ったら誰も説得できないよ。
 ここで主語がなってないからいえるけど、革命なんて何にもないよ。革命っていうのは色んな言い方があるけど、現時点の人間の幸せなんか言い切ること願ってないも。それこそできたらば意識がタイトに戻れて、タイトに戻れるってことは未来に向かい合えるってことだから、そこで何が起きてるとか、何がマズクって悪くなっているのかを知りたいも。ホント冗談みたいだけど、人って対位置線にある人とは仲悪くなるんだよね。俺はね、やらないよ、この関係って手が届くじゃない、だから怖いから仲良くするんだよ。でもこの関係で手が届かないとなると本性が出る。何か言ったって良ければいいとか、痴漢があってかかってくるから対処できるか。この関係って何なの。人って……ミーティングしてる時俺は場所変えるから、こうしている時なんか悪かったんだけど、どうしてこうなったら(座席を移動して)良くなるとかね。ホントに情けないよね。
 なんでそういうふうに……やっぱり怖いのよ。怖いっていうのは究極的に死が怖いの。自分の痛みのわからないことは怖いの。僕は最近若いコとも話できるから思うけど、今のコって孤立することが凄く怖いみたい。だから内輪ぽっくても、嘘っぽくっても同じようにしていた方がいいんだ。でもそれを何とか個性と言いたい訳。僕たちが20年間くらいかけて考えて勉強したことって、二十歳くらいのコって感覚でわかることができるのよ。勉強なんかしなくっても。でも僕たちはどうして悪くなったのかとか、悪いのは何なんだろうって考えてるけど、その時代に彼らはいる訳だから、僕たちが遅れないようにしてなきゃいけない訳だ。さらに十年後のコたちなんてのは実際わかっちゃってるから。わかるってことはイイことと悪いことがわかるんだから、イイことをやりゃあいいのに、照れくさくなる。やっぱり、サティが秘密結社の究極的な姿は慈善団体だって言ってる。あれはね、僕は20年くらい前からひしひしと感じてるけど、そうだよなって思える。なんか始まって変な会議して、世の中が悪いとか言ってるより、みんなで集まって会議終わればいいんだよ。もちろん自分の作品とか作業はすべきだけどね。(終)

灰野敬二 トーク・エッセー 10

灰野敬二 展示会「─写されてしまった呼吸(いき)─origins hesitation」が吉祥寺で催される前夜(4/27~5/6、ブックステーション和)、再び話を聞いた。
 ──画もロックから生み落とされたものですか?
 言葉ではないところでの説明。もちろん時には、言葉で自分がどうしてパーカッションをやってきたかとか言ってきたけど、たまたま、ある人にあくまでもいい意味でそそのかされて──。人と電話で話している時に、中学生の時からゴニョゴニョゴニョゴニョ描いていて、描いているというよりただ鉛筆が、ペンがあるから描いていたというだけで、線が消えいく時とかつながった時の楽しさというのは、僕が考えている「間(ま)」とか「タメ」。たとえば美術家ならば意識してやらないであろうことで、筆を持った時にウッと息を止めたりとか、息を止めてハッと吐いたりとか、僕がパーカッションを叩いたりギター、ボーカルをやるのと一緒。冗談でも自分で絵描きという気は全然ないけど、一番始めに言った自分のやっていることの説明を言葉でなく現したというか、キャンパスという2次元に現したということと、驕るつもりはなくて納得はいかないけど、見ていても「アッ」とちょっとづつ自分らしさが確認できるところがあるんで。今回色んなつながりが、偶然があって、ちょうどそういう時期だっていう。7、8年前から人に見てもらう形ではやりだして今まで2回か3回個展をやってる。自分の画を絵として比較されたら穴があったら入りたい気分が十分あって、弁解めいたいい訳を作った(笑)。展示場に張り出す言葉、それを読みたい。
「これは画と呼びうるものではなく……。
これらは神秘を継承するはめになった呼吸(いき)が
記号と成り果ててしまう前に
見られたがっている神経の本性を表出させたものである。」
 神経というものが目に触れたらば、ある時自分でやって描くというよりもキャンパスになぞるというより、いや、描くだ。描くという行為をしてる時ゾッとした瞬間があって、これは自分がいつも意識していて説明しきれない部分はやっぱり神経の部分だなと思って。「私は神経がオカシイです」って見せる人はいなくって、自分の神経はこうなんですって表に現すことが表現な訳だよね。だけど神経って言葉はみんな避けて通るから、あるのは当たり前のことだし、前に言ったかもしれないけどアルトーにせよゴッホにせよ、その本質の部分…ひょっとしたらそれが全部出てきちゃったのかなっていう。自分でもびっくりしたも。説明できないだけ自分の中にわだかまりとして持っていたものだし、ただその本性を見たっていうことは自分でもゾッとしたけどね、瞬間は。エーこういうものなのって?
 (音による表現との違いは)説明がどっかで加わっているんだと思う。僕は音楽至上主義者と思われていると思うし、批判は自分自身にもきてることだから、その音楽至上主義から見たならば、瞬間を信じて消え去っていくものではなく、知ってしまったもの、もちろん音は録音という方法もあるけれども、ライブに来てその場で体験してもらうこととは違うので……。普通ならば、精神科医の先生が描けって言ったある種の強迫観念の中で患者が描くような絵を自ら進んで僕は書いてしまった訳だから。俺はオカシクないってことを証明してる訳(笑)。意識してできる。患者でありながら実は精神分析医でいられる、両方を自分で言っていられるという。おそらく、自分が物心ついて、初めはオカシイっていう感覚とか、憧れてた時期があったと思う。でももうそれではできない。オカシクなったらできないということを踏まえているから、オカシクなる前にやっちゃっているんだ、自己防備とは違う意味でね。そういう意味では、色々な所でそういう環境を用意してもらえて自分では救われてるなって気がする。いわゆるオカシクなるっていうのは、関係性を持てなくなるっていうことだから、オカシクなるのは恐らく一番楽だと思うんだよね。自分はそれを求めないし、表現ってまさに現す訳だから、自分の為にやるっていうことと同時に、見てもらいたい、聞いたもらいたいから、けして自分の為だけじゃないっていうことを再度言っておきたい。
 (活動がそのものが慈善団体に)なれれば嬉しい。一つの言葉で囲って、組織を作るってことがいいのか悪いのか未だに解らないし、未だに自分の中で葛藤を続けているけど。三つくらい偶然が重なってやれるならいいけど、ヨーシこれから慈善団体作るぞっていうのは何なんだろうって。
 これは自慢したいんだけど、今回アイルランドに行けて、凄いことが起きた。耳の聴こえない人が僕のパーカッション・ソロに来て、聴こえるようになった。人っていうのは、慈善でも偽善でもいいからとりあえずやれって。それはどういう効果、例えば街からゴミが無くなるなんて人間に対しての美にはならないかもしれないけど、何か念じていれば、現在生きている魂全部が一瞬にして核要らないって言ったら核が消えるっていうようなこともこれで信憑性が出てきた。たったひとりの人間が何かやることによって、明らかに良くなった訳だから。僕は今まで何かあって、自分がやってることに対してイイって言い切ったことがないの。良くはないけど、悪くないことは確かだった。でも、今回アイルランドで起きたことは明らかにイイことなの。そのことを悪いっていう人は百人中百人いないと思う。僕がやることで、これはいつも言ってるけどリスクを負うってことで、昔のお百度参りのように、母親が自分の病気を代わりたいとか──。(ヒーリング・ミュージックのように)ピーとかやってアハハじゃ治りやしないって。
 ただ、白状しておくけど、これは奇跡ではない、治療なの。(その女性は、スキーやっている最中、極度の緊張から1年間耳が聴こえなくなっていた)いわば詰まっちゃった状態。それを僕が、いわゆる気合いを入れた訳よ。パワーっていうか祈りをすれば、今度は本当に生まれた時から聴こえない人が微かに音の余韻が感じられるぐらいになればっていう思いがあるし。彼女が「聴きたい」って強く思ったのとは違う話で、自分で受け入れようとしたから入った訳。(ライブで)僕が動いている、それを見ているだけでは自分の五感が満足しなくって、ひょっとしたら自然なかたちで聴こえた、五体満足のからだの状態になっていったのかもしれない。すべて空気に触れる訳だし、空気が波動して、目とか耳とか鼻とかを意識してるけど意識する分だけ間接的なものだと思う。皮膚は直接的にそこにあるすべてを受け入れられる。それが波動として入っていったら、血管がどんどん気付いて、いわゆる自然の状態に向かうような気がする。反対に、喋れない人がメッセージを言いたいがために喋れるようになっていたかもしれないし、ただ今まで僕がそうしたいそうしたいって偽善的に言い続けてきたことが、偽善的であろうといい結果が出たんだから、みんなもっと偽善的なことをやるべきだよ。
 僕の音楽って、初めライブで聴いた時、10分くらいで逃げ出したくなるって。耳がもうオカシクなる、こんな所に連れてきやがってって思って、そのうち1時間くらいすると次には自分が宇宙に放り投げられた気分のようになる。初めはとにかく怖かった、知らないトンネルがあってそこに無理矢理引きずりこまれて、そこは真っ暗な道で、でもでもでもになるけど、何だか知らないけど安らげると。なんでこんなウルサイのに、力が抜けて、眠くなり、安らげるのかっていう感想が多い。それが自分がいいヴァイブレーションとして送れているのか、あるいは攻撃的な、負の否定的なパワーを送っているか伝わるようになってきたのかな。初めの頃は伝え方がまだわからなかったし、この辺までいくけど届かなかった10年くらい。持続したことによってスピードが増したんだと思う。加速っていうか、例えば3時間弾いていても、前はこの辺で留まっていたものが、いまはからだの中の脳細胞まで入っていけるも。これはある種の持続がないと。
 話を元に帰すけど、本性っていう。僕の本性というよりも、神経の本性っていう、何でも隠されてるものってホントはすっごく見られたいんだよね。ただ今はまだ見られべきではないとか……ないものなんてまさに無いんだよね。その意識がもうそこで、自分が、私はある、ゴミがあるかって意識の話になると後は見るか見ないか、聴くか聴かないかになる。みんなそうだと思う。感じるか感じないか。彼女は気持ち良さそうだから聴こえたんだ。(終)
 ※後記 この後も話は灰野敬二の演奏そのもののように続いたが、それはまた別の機会に紹介したい。「最後に何が言いたいって言ったら、僕は音楽が好きです。音楽がで、音楽は、でも音楽も、でもなくね。」

☆トーク・エッセーvol.1~9は、昨年6月のインタビューを編集

合田成男 略歴

舞踊全般の舞踊評論家。東京大学卒業後、『神戸新聞』『スポーツ紙』の文化欄担当者として、ありとあらゆる舞踊の評を書く。1959年の「禁色」を見て以来、土方巽の暗黒舞踏を評価し続ける。また、土方巽が唯一信頼する評論家として共に長い時間を過ごす。「オンステージ新聞」や「日本音楽新聞」にダンス批評を書き続け、アカデミックに表出することを避け、自身カラダを含め日々の生活・日常から「踊り」を評する貴重な時代の証言者。

合田成男 雑話 1

要するに現実の仕事を持ってないと──
 現実から受け取るもの、あるいは現実に向かって吐き出すもの、そんな作業が体の中に出来上がってこない。だからやっぱり、熾烈に現実と向かい合っている。それでフッと引いたときに踊りが出来上がると言うような受納の体勢をね、外部がないと駄目なんですね。ところがダンサーはダンサーでいいと言うようなことになってしまって、ひ弱くなってしまったね。やっぱりエネルギーは外からもらう、もう雑然として訳も分からない所からもらってくる。そこの所に〈からだ〉を晒さんといかん。 そんな瞬間を持って何かを、自分自身をキャッチするような、そういうタイプだったんじゃないかな。土方だってそうだろうと思うよ。舞踏の初めに現れてきて「禁色」を出した。「禁色」で舞踏を開始した、という風に言われるのは後の話でね。土方はその時既に、何て言うかな、「病める舞姫」にあるように、幼少の頃からもう悲惨な状態を乗り越えてきてね。東京にやって来て、ダンスによる表現と言うものをおよそ五年、安藤哲子さんだとか、ああいう所で盗み取る訳だ。盗み取るんだけれど、そして自分の一番やりたいことをやれるチャンスがきて、自分のやりたいことをやると、鶏(にわとり)を抱いて転がると言うようなことね。

「禁色」だって一つの結果ですよ──
 「禁色」で何かをやろうなんて以前に「禁色」をまず出す。それが抵抗されて混乱を起こす。起こしてそこから離れる。そして独立し初めてここで舞踏だ、と言うような所に入っていく訳なんだけれど、舞踏の初めを考えればもっと前から始まっているはずなんだ。その元の所まで戻っていくとしたら、さっきから言っているように現実と自分の向かい合いね。その形が始終刺激的にあって、受け入れて、それを自分の身体の中から今度は逆に出して行く。そして失敗したり成功したりすると言うようなことだがね、もう堆(うずたか)く積もり上がって行かなければならない。だから刺激が多い方へ積極的に身体を持って行くべきだというふうに、それを土方はちゃんともう小さい時からやっているんだよ。

自分の小学校を遠くに見ているんだ──
 そうすると音楽教室があるんだね。そこに窓がずっと並んでいるんだよ。それでその窓は変哲もなく並んでいるんだ。すると奇妙に何かを増殖している。増殖するって言うのはその内での問題だ。一足す一は二、二足す二が四と言うようなこと、それで九九までいく。九九まで行く。それを一生懸命教える訳だ。すると実はからだと九九とは関係ないんだよ。ないんだけれど、一足す一は二だっていう風な、そういう所でどこかで止めてしまえば、教育はひょっとしたら、その数字は身体の中に入るだろう。それがどんどんどんどん頭の中だけ、でこう、それをね、増殖と言ってる、土方は。〈奇妙な増殖があって、馬鹿正直な景色だ〉って言ってるね。そういう風に言う彼自身がもう既にその時あったんだろうね。
 それは彼の現実から言えば、学校が嫌いだとか、或いは学校へ行くこともあの姉の問題があったりして、恥ずかしい思いで学校へ行かなきゃいけないと言う、切実な何かを持ち歩くんだからね。その結果かもしれないけれど、とにかく〈奇妙な増殖、馬鹿正直な景色〉と言う、そんな書き方をしているね。だから「禁色」が出来上がって、僕達はそれを舞踏の初年だというようなことを言うんだけれど、実はそうじゃないんだな。そのずっと以前からからだのことが彼の中であって。

やっぱり戦争にちょっと遡る気もするんだけれどね──
 戦争はまぁ戦争でいいんだよ。終戦後なんだな。何て言うかな、僕なんかつくづく戦争が終わって感じたあの心安さと言うのがあるんだね。バーッと解放されてね、何だかからだ中がボーッとこう緩(ゆる)やかになっていく事をね、ずっと感じていた時期がある。フッと横を見ると皆同じように苦しい生活を始めている訳だ。ひどく平等感があるんだ。それは、ちょっとある意味じゃ平和みたいな感じがするんだよ。それは多少の貧富の差はあっても、皆苦しい所から抜け出してきたって言う共同体みたいな気分があってね。それが続いて行くだろう。何て言うのか、つまりいい意味でそれが膨らんでいったり、満ちていったりするだろうという希望を皆が持っていたんじゃないか。ところがそれが次々と崩れていく。そうすると六十年安保が出てくる訳なんだけどね。その崩れて行くそういう状態が、踊りの世界の中にもあったような気がする。
 (戦時中は)現実がひしひしとやって来る。否応なくやって来る。それに向き合う。その手段としては滅私奉公しかない訳だ、そんな所へ潜り込んで行くんだけれども、滅私奉公に燃えられるような何かがやっぱりあった。ところが終戦後、一時そういう非常にくつろいだ、開かれた、あるいい時期があったんだ。それが短時間の内にどんどんどんどん消えて行く訳だ。消えて行くと、今度は商売さ、商売をやると、昔ながらのお嬢さん芸みたいな事ばっかりを売って歩いて、そして舞踊そのものをホッと感じたような事と結び付けることもなく、あるいは戦前のカーッとなったやつを維持してくると言うこともなくね。突然ね、僕は日本の舞踊界と言うのはゆるんじゃったような気がする。何をやっていいか分からなくなるんだ。そういう事は一般にも言えるんだけどね。一般の表現者達の中でも言えるんだ、がやっと立ち上ってくるのがね、良心的に立ち上がれる人達、これ五十年代後半ですよ。立ち上れない一般の舞踊家達は、そのままどんどん淡くなって行くわけ。ところが現実には舞踊界と言うものを彼らはがっちり持っている、一種の窒息状態になって皆が馴れ合いになっている。そういう状態の所に、土方が、からだが出てくるわけだ。
 あの真っ暗な舞台作り、見えない舞踊。これはやっぱり誰もやっていないことだろうというような気がする。センセーショナルな、あるいはジャーナリスティックな、そういうとらえ方ではなくて、それがそこにあった時の根拠って言うのがある。真っ暗で見えない舞台ということなんだ。舞台の暗がりを発見したこと、暗がりを置こうと思ったこと、あるいは、あぁもうそれでいいんだよというような所で切ったか、ね。もう暗くていいじゃないかと、見せちゃ行けない禁忌なんだから、それでいいじゃないかぐらいの、気楽な感じかなと思ったりするんだけどね。
 あそこには「病める舞姫」に出てくるような幼少の全く個人的な悲惨さ、あるいはその悲惨を耐えてきたからだ、それはあんまり感じられない。あまりにもきれいに出来上がり過ぎている。白黒もね、きれいに出来上がり過ぎている。非常に単純になって、あんなに単純になるというのは難しいことなんだけれども、それはもう投げ出すような調子でやったのかもしれないと。

結局土方を見て舞踏、舞踏だーっと言う風になった人達が、
今衰えていっている──

 その理由はやっぱりそれをからだに戻さなかったからだ。現象なんですよ。現象を受け取って、それを後継いでいけば何か出来るという風なね。舞踏、舞踏と言い始めると衰えて行くわけだ。舞踏じゃないのよ。こっちに舞踏と言うものがあり、外部の条件になれば、からだにその舞踏、色んな人の舞踏を見た、そこからいっぱい入ってくる、入ってくることによって自分の中でもう一回作り直すようなね。からだを経過していく時間がないと、やっぱり舞台は継続して行かない。
 ちょうど今一番悪い時期なんだ。ずっと舞踏の概念を追いかけてきただけのような。すると力をなくしてしまってね。だからやっぱり外に出るべきなんだよ、本当にね。日本でだったら、それは社会的に、社会と直接接するような状態になった方がいい。あなたが言う、職業を持っていて、一方で踊りをやっていただろうと、そういう昔の民俗舞踊なんかの正しさがあるわね。労働があるから踊りが発生したと。ただし踊りそのものが私達のからだの中にあるんだよ。これは簡単に言えば、私達はどこかでバランスを取らなければいけない、というような。これは生きて行くためのバランスを取るということ、そのバランスを失してもいいじゃないかという二つのものを持っている訳だからね。だから本然的にはからだの中に踊りと言うものがあるんだと、そしてそれが労働の果てに何かを満たす動機が入って来ると、ちょっと手が動いていったりすると言うような所から発生してくる正しさね。正しいね。それを今なくしてるね。なくしてるよ。

合田成男 雑話 2

記憶なんて言う問題がまた出てくるんだ──
 自分の中から掘り起こさなきゃいけない。その頼りになるのが記憶だよ。その、記憶を掘り起こしてみると影があるんだ。その影をね、自分ではっきり意識する、あるいは認識するというような過程がある。そういう所へどうしても入って行かない。入って行かないから何て言うか、ポスト・モダンなんて言われるとパーッとそっちへ走って行けるんだろうと思ったりもするんだ。そこで自分を許してしまうとねぇ。ことが起こってくるんだろうと思うんだ、やっぱり今ここにあるからだから発するべきダンスだと、僕は、ダンスと言うのはそういうものだと思うんだよ。

ここにあるからだと言うのはね、誰も分からないんだよ──
 そんなこと関係なく習ったものは表現になると、そのへんのことで皆処理しているんじゃないか。あるいは他のものを見て、そこから気付いたものをやって見てダンスになっていると。そういうからだが出来上がっているつもりになっているんじゃないかと。まぁそのへんがね、困っちゃうんだよね。

自分のからだの中からものを探す──
 そういう論理が持てなくなっているね。それはもう明らかに論理なんだけれど。そして実際に生きて行くと言うことの必然的なことなんだけれど。でもそれを試みないのは何だろうな、恐いんじゃないかな。だから全く個人がないね。個的なものが。だから政治から何から全部含めてね、そういうものを許容し、そこにゆっくりと落ち着くような環境を作るべきだと思うんだけれどね。いや、それは戦前そういうものがあったかどうか。でも戦前のある種封建的なしきたりみたいなものの中に、まったく一人になってメソメソするような時があったんだよ。今もあると思うんだけどね。メソメソっとする子供達がメソメソーッとしているようなことがあると思うんだけれど、そういう場所がない。場がないね。家の中に影がない。家の中が皆明るいよ。これはまぁ健康趣向だろうと思うんだけれどね。やっぱりじめっとしたような物が、もう周辺になくなってきてしまっている。そうすると人間干からびて行ってしまってね。

「病める舞姫」だって皆読んでないんだよ──
 読んでないんだけれど、「病める舞姫」の聞いた情報だけは皆持っている。だから読みなさいって言う。読んで欲しいんだよ。それを読んでみるとね、あの本のスタイルが一つあるんだ。それはね、時間を全部ブッ切れるんだ。ブッ切れる理由はからだの時間だから。だから私達は皆普通に道を歩きながら、こっち見ながら何かあっちを考えているみたいな事があってね。すぐに今度はこっちを見るんだよ。それで真っ直ぐ歩いて行くんだけれど、右行ったり、左行ったりして、ジグザグに歩いている。そういう状態が、あっち行ったりこっち行ったり、その文体が読み切れない。でもそれをからだに戻せば簡単に読めるんだよ。それを一生懸命言うんだけれどね、なかなかやっぱり納得されないみたい。

受容する、受納するって言うことがどれだけ大切な事であるかを、
一生懸命読んだんだな──

 現実に接しないと受納と言う事はないんだ。だから現実にからだをまず乗っけて、そしてそこの所でぶつかったものを受け取る。受け入れてふっと出してみて、そしてまた受け入れて受け入れて受け入れてって言うような事があった時に、気が付いたら変わっていた。それは、しかしある年代までのことだ。そこんとこで出来上がったものが土方の「禁色」だね。それまで出来上がったものが現実に流れている舞踊の世界とぶつかる。もうあきらかに自分のやるべき事ははっきりしているんだ、と言う所へすっと還って行ける。それでそれを捨てることも何もかも出来ると。まったく孤立している。孤立の歴史を持っているからね。十分その何て言うか、楽しんでいるという言い方はちょっと違うんだけれど、自分の変わり目を知るくらいのゆとりのあるポイント、ポイントがある。そしてそこの所に今度は乗っかって行くんだよ。そうすると章によって書かれている対象が変わってくる。自分自身の中の混乱を書いたりとかね。ちょっと横を見てね、そこの少年達との関係を書き始める、というような所にずーっと移って行く。まぁ僕はそれをとても自然なことだと思うんだけれどね。だけど、あの悲惨さをよく受け入れて行くんだね。大変だろうなという風に思うよ。だって三人身売りされているからね、三女まで。そして親父がもう滅茶苦茶なんだから。

押し入れの中にね、やっと漂着したって言う言葉があるんだ──。
 流れ着いてね、やっとここへ漂着したと。その押し入れの中でも、匂いと温かさとあの空間だね、安定した空間。自分の寸法に合う空間だ。その中で横になっていて、そしてけむり猫って言うの?足を持ち上げて布団がこう持ち上がって、ポテーッと落とすと猫が出ていくって言うね。そんな事をやって。そういう物がなぜ漂着しなぜそこでからだの衣更えが出来たかと言うことが、次の章に書いてあるんだよ。次の段落に。それはね、耳から聞いたことが口から出て行かなくなった。それでだんだん自分の動きが小さくなって行く。そうするとその押し入れの中の世界に、普通のおばあちゃんがやって来て、「何処のあんちゃかね」と聞く。何処のあんちゃかねと聞かれることを、普通に受け入れられるようになってきた。そういう大変具体的なことが並んでいるんだね。このへんもね、漂着してから押し入れの中で、漂着して、衣更えからこう入って、そこに事件があるんだよ。何の事件か。金の問題か、あるいは娘の問題か。あるいはもっと他の色々な問題かよくわからない。ともかく家の中が騒動になるんですよ。騒動がおこる。ところがその事件を押し入れの中で聞いていて、口から出さない。少し前の彼だったらカーッと表へ飛び出して行っちゃうんだ、押し入れの中からね。そういう受け身の変わり方がね、自分が積極的に変わるんじゃない、いつの間にか変わって来ると言う、こういう進み方をね。これはやっぱり悲惨なんだな。受けていく受け方なんだ。全部受けていく。だから悲惨がそこでふっと、その将来のことを考えてみると、ずいぶん財産になる、財産に変えることが出来る。だからね、皆どんなに少々苦しくったって、若い人も含めて苦しくても何でもいいから、とにかく世間にからだを晒すことだな、という風にも言いたくなるね。

完璧な物化が前提に考えられる、大変具体的な技法が
その中にあるんじゃないかな──

 ということは、自分のからだが観客、要するに劇場だ、劇場の中に、舞台に出て行く時には完璧な物だね。だからその物化、物になった自分が手足を動かしながら変化して行く、その変化を見せなきゃいけない。あるいは行為そのものを見せなきゃいけない。そのためにはからだはすっかり物化しなければいけない。主観的なものを全部排除してでもね。それは土方の考えている形の世界よ。その形が変化する事によって何かが伝達される。その変化の主体にならなきゃならない。その変化の主体になる為に、その変化を自分の中から発見しなきゃならないもう一つの主体性を持たなきゃいけない。この主体性と関係を持つのが、現実の外部なんだという事を僕はさっきから言っているんだ。

例えば同じ事をずっと繰り返して行くだろう──
 それは観客も努力しなければいけない。僕みたいな立場にあるのは、何かこう見て行くわけね。そうすると腐ってきたり、奇妙な匂いを発したりするようなね、過程をずっと見て行くのが面白いんだな。これもまた自分に戻って来るんだよ。そうするとふっと自分の中で腐った時だとかね、匂いを出している時だとかね、出しただろうと思うような事が、いっぱい思い浮かべるような一つの刺激になるんだけれどね。これもいいんだ。でも、もう何か明らかに意識と言うのかな、意識じゃないんだけれど、ただ気付くだけ。そしてそれがどんな風に広がって行くかわからないし、劇場出たらパッと忘れてしまうかもしれない。でもその瞬間はあった、そんなようなことを舞踊はね、提供するのがいいんじゃないか。その時にはからだは物になってなきゃいけない。だって実際に僕達が道を歩きながらすれ違う人達は全部物よ。実際にね。そりゃ可愛い子供が来て、子供っていう物がやって来て、こうニコニコっと笑ってくれたり何かすると、土方が言ってたよ。俺も年を取ったなぁ、横に座った赤ん坊に笑われちゃったよ、そして笑っちゃったよって、年を取ったなぁっていつか言ってたけどさ、そういう時間は土方の中にも残っていて、そして話にもなって出てくるんじゃない?そういう、こう何かな、<突然に行き来した>というような事があるといいね。

合田成男 雑話 3

具体的に触れた舞踊あるいは舞踏──
 そういったものと向き合って生きるために見ているという、それだけだったような気がする。座ってものを見ている限り、その時間はやっぱり刻々に過ぎて行くんだけどね。自分の生命は刻々に落ちてゆく方向に行くだろうと。
目の前にあることを克明にみて、もう一回再建できるかできないかということがどうも──
 私の中で再構築する、再構築できるかできないかということが、どうも私の中では一番の問題なんだよ、というふうに考える。それが私の中で再構築させるほどにつながるかつながらないかという問題だ。

見たことのないものを見たい。──
 見ることの欲が、あるいは今までにないものを聞きたいという欲が。その欲を充たされたときには、もう大万歳するね。それはたとえばまあ「禁色」を見て、その時に「禁色」のホモセクシュアルという主題も、それから表現の簡潔さもぜんぶ僕の中に入ってくる。あんなふうに僕は生きられればきっと素晴らしいだろうなと。入ってくるとね、からだがフワーッと呼吸するんだよ。そうすると本当に気恥ずかしいくらいボーッとしちゃうんだな。そしてボーッと入ってきた、そのへんを僕は舞踊だと、舞踏だというふうに思うんだよね。そうして入ってきたら、それが抜けて行かないからね。自分の中にちゃんと体験として入っちゃうんだよ。

再構築できないから駄目だというような言い方になっちゃうんだろうな。──
 それは私にとって駄目なんであってね、人様にとって駄目なんではないんだ。でも何ていうかな、そういう作業をやっぱり薄々感じてくれる人はいたみたいだね。だから続いたんだと思うね。やっぱり他の人にも、その作業に近いある受けとり方、あるいは生き方というものが僕にはあるんだろうというふうに、何ていうかな、嬉しく思ったときがね、何回かある。

いい踊りは、いい踊りはわからないからね。──
 わかろうとするようなところがある。それは別に頭で数字のようにして、こう見ているわけじゃないんだ。一番大事なのは、ぱっぱっぱって何かがやって来る。要するに作品としての肌合いが出来上がっているかどうか。それが来るか来ないかがまぁ最初にあるんだけどね。そうするとそれが来て、とてもいいものはわからない。オヤッと思うんだな。どこから来たものだろうというような感じ。そのどこかから来たものを一回確かめたいと思って、持って帰って再構築するね。データをこう一生懸命集めてそれで再構築すると、あぁこういうことなんだって、しばらくしたらわかる。それと、自分で、これは再構築できない、違うぞって言いながらもどこかで引っかかっているものがある。そしてそれは一ヶ月ぐらいたって、忘れた頃にまたワーッと出てきて、そしていやここは僕の考え違いだったとかね。書き損ないだったって、こう一人で赤面する。

私に入ってくる要素そのものは。──
 けっして部分的な動きだとかそういうものではない。全体の肌合いのようなもの。要するに生々しくすーっとやってくる。感じから言えば、ちょっとあったかいような感じだね。これは自分の中でもデータを並べていって、もう一回それに肌合いを再確認できるかどうかという問題。これ、わからないことがあるんだよ。わからないということは、その肌合いが非常に濃密であった場合。濃密であった場合には、こっちが混乱する。それで混乱したまんま帰ってくる。その混乱を、今度は自分を救おうとするじゃない。何とか整えようとする。だから一生懸命もう一回再構築する。そして救われるかどうかが決まる、というような作業をどうもやっているような気がする。

踊り手の、そのからだだけが動機であって、そして表現体であってというふうなだけではすまない。──
 これを舞台に乗っけるということ、要するに生身の自分、からだを充分に意識して、意識的にからだを意識化しているというようなからだが、もっと意識、もう一段意識化されなければならないというような、これはやっぱり舞台なんだな。そうすると普通の舞踊家あるいは舞踏家は、自分のからだをこっちに持っていて、それで別のところにからだを持っている。この間をつなぐものは一体何かというふうなね、問題が出てくる。そうするとそれは安易にすれば、ある種のシステムに乗っかってくるとダンサーになって、そしてダンサーが出ていけば踊りができ上がるというような、そういう非常に安易な流れがね、ずいぶん周辺にいっぱいあるわけだ。それ以外のことを全く見ないような、それがさっき言ったオモチャだよ。まぁビジネスというか、もっとなにか勝手な欲望を自分のなかに高めていって、その上へその上へ行こうとか、そういう欲望はきっと持っているんだと思うんだけどね。それは客観的に見ればオモチャにすぎない。でもやっぱり一回は、オモチャになるというような危険なところまで、何かやっぱり修練しなければならない、訓練しなければならない。要するにその訓練というのは、自分のからだから表現体への距離をきちっと尺度することだろうな。結果として尺度できるんだと思う。そういう訓練はどっかでしておかないとならない。これは仕方ない。今の劇場のなかに、舞台の上に乗っかるという意味から言えばね。明らかにデフォルメされなければならない。ナマのまんまのからだはそのまんまでは通用しないということだよね。

舞踏の過程のなかには、からだというものを物化してみなければならない過程がある。──
さっきから言っているようにからだが表現体になるための一つの手段。そうした場合、土方の微粒子論みたいになね、ぜんぶが粉々でぜんぶが等価値で、それを再構築したのが人間なんだというような極端なところまで、要するに非常にラディカルなところまで行かなきゃならない。そしてそこから帰ってきたときにからだが快復する。そういう一種の病気のようなところまで、自分のからだをずっと進めていかなきゃならないというのが、どうも舞踊家のあるいは舞踏家の、とくに舞踏家のやるべきことだろうというような気がする。そうすると農作業は苦しいといったようなことが、そこでサッと解消されるんだな。

自分を再構築する習慣を持つとね──
 かなり色々なことが見えてくるんだよ。他人のことを再構築するだろう。それと同時に自分を再構築しているわけだ。ということでからだの調子が悪いっていったらね、助けられるんだよ。ということは、ボシャラッとしていなければ、人の歩行なんか見えるはずがねぇじゃねぇかって土方は言うんだな。だから自分も同じように元気に歩いていたら、人の歩行なんて見えない。人が歩いているのを見るには、ボシャラッとしていなければならないという名言があってね。そうするとボシャラーとかあるいメソメソッとか、あるいは何と言うかな、ものを飲み下ろせないような状態そのものをどこかでパッとつかまえてしまうと、一変して明らかになって、そして明るくなる。決して暗いことではない。だから舞台の上でも明るくて力強いと言うようなことが、そういう意味でね、ボシャラーとしているものの形、形にならないものを明確にそこに置くことなんだよ。決して明るいことは明るく振る舞うことではなく、ボシャラーとしたものをキチッと置く。置いてみると、それはかなり強く表現になる。表現になって、ボシャラーとしている表現が入ってくる強さは、保証されるだろうというような気がするね。

軸の問題──
 さっきからからだと言うでしょ、そして表現体というでしょ、ここを渡っていかなきゃいけない。こういう過程が一応ある。それで渡っていったときに、このからだそのものは機構を持っているから、当然行為はぜんぶこの軸から出る。この軸は生理的な軸なんだ。そしてもう一つこっちにあるからだが軸なんだよ。向こうにからだの軸があって、こっちに表現体の軸がある。この二つを結び付けるという、結び付かなきゃいけない。そうするとからだはもっと自由になって、この軸をまた舞台の上へ置いて、前へ出られる、横へバシッと行ける、色々なところへ走って行ける。でもこの軸は示さなければいけない。要するに骨格的に知らせることができるのは、ここにもう一つの軸があるから。この軸は社会的に、日常的に、色々の現実的に、あるいはもっとイマジネーションを含んだある種の世界だよ。これがこっちに押し寄せてきて、これがからだをもう一つ前へ置く、出してくれるというようなね、こういう玉突き式にトントーンと行くようなね、こういう関係がザーッと通っていかなきゃいけないみたいだね。

よだれを流すということが──
 普通の舞台では有り得ないことだ。生理的によだれを流すまで自分が変容していく。そういうものをあからさまには見せないわけだからね。われわれだって日常よだれを流して、そんなところ人に見せようと思わない。大急ぎで拭くじゃない。あるいはちょっと気恥ずかしいような感じになるじゃない。よだれが出てくるある種自然な時間が続いているということだろうね。そうするとよだれだけじゃない、他の物事も含めてやっぱり軸が見えてくる。あれやったりこれやったりではなく、人個人が、自分の中のある種の必然と言うか、そういったものでついついよだれが出ちゃったというような状態は、雨が降ってきたことと同じだよ。軸にさそわれて僕達は、舞台に入っていくんじゃないかな。