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合田成男 雑話 4

個が生まれて死ぬということなんだろうね。
 だからそれは、あの表現に結びついてくる根拠は、僕は呼吸だろうという気がするよ。なぜ吸うのか、なぜ吐くのか、これは全部からだの機能であって、我々の意識とまったく違うところでやっていることなんだと。そうすると、そういうからだをこう持ち出してきて、既成の概念なり観念なりといったようなものと向き合わせることが、ひょっとしたら舞踏、舞踏のね、一番の主題であるかもしれないと、テーマであるかもしれないと。ただしそのためには、この個が生きている現実、実際の周辺の、外部の条件が必要。条件が必要ということは、この個が生きていくために必要で、要するに刺激を受ける、そしてそれを受納するね、受納してそれが自分の中から表現の動機になるという。

ある意味の訓練というか体験、
 そういうものを重ねていくとひょっとしたら今の時代とか、そういったものと結び合える。そうすると今の時代と自分のからだの関係がどうも上手くいかないということ、そのことが僕は動機になると。動機になるとそのからだは、これはまぁ表現といえるかどうかはわからないけれどそのからだは生き方を、生き方を選択する。そうすると、それが表現になってくるのではないかという気がするんだけどね。だからそこでは、何て言うかな、例えば電車に乗るというような簡単なこともね、条件になってくる。からだがダルいということも条件の一つになってくる。風邪をひいている、あるいはとても元気だということも全部生き生きとした条件になるはずなんだというふうに考える。例えば、あなたが実際にここで表現する、踊るわね。踊ったそれもまた動機になると。そういう周辺、もうあらゆるところに僕達の感覚は拡がっているんじゃないかなというような気がするんだけどな。

見たことのないものを見たい。──
 見ることの欲が、あるいは今までにないものを聞きたいという欲が。その欲を充たされたときには、もう大万歳するね。それはたとえばまあ「禁色」を見て、その時に「禁色」のホモセクシュアルという主題も、それから表現の簡潔さもぜんぶ僕の中に入ってくる。あんなふうに僕は生きられればきっと素晴らしいだろうなと。入ってくるとね、からだがフワーッと呼吸するんだよ。そうすると本当に気恥ずかしいくらいボーッとしちゃうんだな。そしてボーッと入ってきた、そのへんを僕は舞踊だと、舞踏だというふうに思うんだよね。そうして入ってきたら、それが抜けて行かないからね。自分の中にちゃんと体験として入っちゃうんだよ。

なおかつね、もう一つわからないことを含んでいる。
 要するにからだの中にわからないことを含んでいるということは、何というかな、巨大なもの、観念でもいいや、あるいは世界の果てへの空想でもいいや。それをね、どこかで制御しているわけだ。制御していると同時に、また限りなくわからないから、限りなく拡げていくというようなね、そんな作業のしかたをしている。周辺の、現実の条件が条件を全部まともに受けていくと、時代にある存在のしかたが出てくる。文化的な背景も色々なことも全部ふくめて。そうすると外へ向って大きく拡大する方向を、個が選ぶかどうか。あるいはもっとそれを拒否するような方向を選ぶかどうか。どっちも僕は成立していることなんだろうと思うんだけどね。

ふっと振り返ってみれば、何てまぁ、もうこの年になるとね、
 何てくだらない、人生とはくだらないというようなことをね、言いたくなるような瞬間だってあるよ。それからまた一方、何か大きなものに刺激を受けたら、こんなことも知らなかったのかと、急に目が覚めたような感じにも受け止められる。どうも何かその辺のことがね、わからない状態を僕はからだといってしまう。
天然自然に違うというようなことに寄っかかっていると、からだのほとんどは概念で固められるから、その概念を押し出すくらいの一種の作業が必要だ。そうでないと自分自身になかなかなれない

感じなくてもね、言葉を使っちゃうという間違いをたくさん重ねてくると、
 もうそうやって重ねてきた言葉が死んでいくわけだね。死んでいって、こっちにも入らないし相手にも入らないだろうというような感じでくるとね、全部死語なんだよ。ふっとそういうふうに思うことがあるね。なんだもっと早くにだんだん死んでいく準備していたのか、あるいはもう死んでいたのかというふうなね。そういう悔恨が出てくるな。悔恨とまではいかない、もう駄目だという諦めみたいなものが出てきて。だからそう言ったところから離れるには、一回真っ暗闇の中に座っている以外にはないんだろうと考えちゃうんだな。まだこれは逃げ手なんだけどね。ただし現実には闇の中に恐いこともたくさんあるだろう。恐いこともあることを含めて、どこかでまた僕自身が選択する。一方は消えてしまってもいい。一方はそこから生き直してくる、再生するだろうというような、何かそのへんで迷っているんだよ。

こうやって煙草を吸ってても知らないものね。手がどういうふうになって指がどうなっているかということを、
 僕らは知らないまま煙草を吸っているわけ。アッチッチていうんで知るぐらいのものだよな。そう、探せば、いっぱい気がつけばたくさんあるね。しかし気がつかないでいってしまうのは何でかね。形とか魅力的ということではないと思うな。やっぱりお百姓さんが種を植えることから憶えていくというような、しかもそれをからだで憶えていくというふうなところへ入ってくるのと同じように、本来なら日常の中で自分のために勉強することがたくさんあるはずなんだ、からだのためにはね。それをやらないで済んでしまっているんじゃないかな。

ある意味では概念的なものをぜんぶ壊していくような、
 そんなことになると、今度はからだが本当に表に出てくるんじゃないかという気がするね。ただその壊すということも難しくて、とうとう僕なんか何も壊さなかったけど、やっぱり壊すんだろうな。その壊し方だろうな。壊すという雑然としたことではなくて、具体的に壊れてこなきゃいけないわけだ。ある一つのことを選ぶ。選んでそれが具体的に壊してきて、何でもかんでも放りこんでしまいたいような複雑な空間が見えてくるとかね、というようなこまごまとした流れがないと、やっぱり複雑さなんていうものは出てこないんじゃないかな。いやそのへん良くわからないんだけどね。

例えば与えられたものの中に自分を滲ませてゆく、
 自分はそこにあるんだから。そこに与えられたものを受ける。受けてその形を作り上げることができるダンサーは、やっぱりいいんじゃないかというような気がする。それは素朴に言えば小さい子供から全部にある、お婆さんにだってあるんだ。ところがそこで問題になるのはやっぱり主体性なんだ。主体がどういう生き方をしているかというようなことだ。ここでまた、問題はとても混乱する危険性はあるんだけどね。普通の場合だったらああいう伝統的なもの、様式的なものをどんどんドンドンやりながら、そのやっていることによって自分を充たしていけるセンスがないと。だからあることをやりながら、なおかつもっと他に夢を見るとか、夢を見たところまで自分のからだを引き伸ばしていこうとか、何かそんなふうなことをほとんど知らないでできるという。ということは主体というのは実はそれほど正確ではない。言語的に固めてみても、それをするっと抜け出していくような破天荒なものを持っている、当然何をやっているか自分ではわからないんだけれど、何となく単純に言えば気持ちいいとか、あるいはここはこうしてみようとか、何かこう自分を投棄していくようなね。はっきり鮮明にしていく作業なんだろう。あるいは時間なんだろう。そんなものを見ると僕らの方で動きが見えてくる。からだの中の、踊りだけではなく、与えられた動きだけでなく、からだの中の作業が見えてくる。そのへんがいいんじゃないかな。

要するにある考え方としての文化的なもの、文化だね。それと関係ないところで感じ始めるでしょ。
 そうすると困るんだな。職業的に困るんだね。そのへんを行ったり来たりすることが、もう器用にできなくなってしまった。器用にというか、距離がどんどん出来上がってくる。しかも体力は衰え呆けてきている。これを渡るのが大変だ、そして戻ってくるのも大変だというようなね。このへんが歳を取るということなんだけれど。白州に行ったらそういうことが関係なくなるわけだ。人のものを見る必要も、おしゃべりをする必要もない。そこでじっといる限りは、かなり物事が近づいてくるんじゃないかと思ったりもするね。

からだをやっぱり、まぁこれも言葉なんだけれど、その瞬間瞬間にからだを、動いているからだを知りたい。
 白州で経験したことは、帰ってから時々思い出して追体験するというような中で、知り始めるんじゃないかなと思ったりするけどね。その瞬間にはわからない。ただし、何かのために外部からの条件で迷うことはないだろう。そういう時間を過ごしてみたい。そうするとこれは後の余生につながるか、あるいは余生を否定するかどっちかだろう。ということは、

どこかで僕も瞬間を知りたいんだよ、瞬間を。自分で、今が瞬間だと。
 だから風呂上がりで読んだ本のなかで、ああこうなんじゃないかと思ったその瞬間は、多分僕が感じる瞬間なんだと思うんだ。だけどからだが冷えてものを着る、それはすっと消えるわけだ。ある動作を起こしたらすっと消えてしまう。しかし立ち上って衣服を着たときにもその瞬間はあるはずなんだが、何か周辺の日常と混じってしまうんだろうね。目的だからね。だから土方の言った、からだが引き上げていってしまって、残っているものが空気をつくっている。この厚い空気をつくっているんだというようなところに、それを感じている瞬間とそれを見ている、見て再構成しているある時間帯、これはもう舞踏だよ。こっちが、我々の目に見えている舞踏だ、こっちは消えていく動機なんだというふうなことが、もうちょっとはっきりわからんかなと思ったりするよ。

合田成男 雑話 5

とにもかくにも白州町での独居四十日を終えた。お世話になった方々を列挙して、感謝の意を表します。
 まず、谷間の森を開放、提供してくださった園長さんこと大輪武三氏、この企画の賛同者田中泯、掘立小屋を建ててもらった夏井秀和、鈴木啓志、菊島申倖、原田悠士、おいしい食品を差し入れしてくださった棚橋亜佐子、モリーン・フィラン、飯島身佳、生活記録者(ビデオ)石原志保、そして玉井康成の諸氏、特に老人の身体行動力学を無視した空間を構造、私を身体的に苦しめた鈴木君(装置)には、こん畜生(賞)のひと声を贈ります。
 
 この夏、7月27日から8月31日まで、山梨県白州町、中山の谷間で、独居の四十日を過ごした。ひたすら独りになりたいという願望と最後の機会だという決断そのままに逃げ込んだ森の生活であった。ただ、場所を選ぶための条件は独居願望の最初から決まっていた。電気のないところであった。それは同時に、外からも電気の光の差し込まないところでもあった。そして水、ただ、それだけであった。狭い谷間、頭上を覆う樹々、条件は完璧に満たされた。からだにぴったりと纏い着く甘美な闇を知ったし、厚い緑に囲まれて退いてゆくからだの陶酔も感知した。猿軍団に包囲されて猿世界に移行してゆく柔和な微笑みの体験もした。反面、身体はかなりのダメージを受けた。入居してまもなく胃潰瘍になった。過去の経験からそのように自己診断した。そしていま(帰宅後)も痛みは治っていない。それだけではなく、肺気腫も判明した。四十日間の青色吐息の生活は当然のことだったのだ。しかし、いま、つぎのように感じている。この身体的苦痛は、例に挙げた精神的愉悦をより色濃く、より確かにからだのなかのものとして残留させ、機会あれば復活し得る契機となるだろうと。それだけではない。この独居生活全体を土あるいは地面、地表、大地と強く結合させ、これまでの生涯に経験し得なかった場をからだのなかに覚醒せしめたのも、からだの影ともいうべき青色吐息の、この状態の不自由さであったと考えている。いい換えれば、私はそのようにして初めて地表に降り立ち得たという実感なのである。そして、水平への志向ががこの晩年の老批評家に初めてのような新鮮さで訪れて来たことである。へとへとになって「この森のなかに汚いものなどあるものか」と独語し、哄笑していた子供のような私がいたのだ。
 それは確か8月3日のことと思う。入居して一週間、どうにか生活の順序も決まって、計画中から決めていた仕事めいた作業に取り掛かっていた。土方巽の「病める舞姫」から頁を追って言葉を抜き書きする単純な作業である。これまで土方巽を語ることは多かった。あるいは多過ぎたかもしれない。しかし、幼時の貧困、病弱、孤独といった彼を巡る環境や彼の身体的な状態、現実的な心情に根拠し、彼のからだのなかやその生涯の根幹に直截なものからではなかったことに、しばらく前から気付き始めているのだ。従って、抜き書きは、いわば土方巽のからだを図表化し得るほど、極力、単純、平坦な作業でなければならず、それらの言葉を総合、あるいは拡散するような、いわゆるキー・ワードが現れるのを待つことになる。独居にふさわしい作業だと考えていた。この日はまさに快晴であった。白州にはいってから二週間、雨模様のどんよりした天気が続いていたので、やっと夏が来たと爽快だった。小屋の外の土の上に打ち付けたテーブル(九十×一八十センチ、黒塗り)に沿って座り周辺のあちこちに差し込んでいる木漏れ陽を楽しんで見た。頭上の限りなく清澄な空の青をふくんで、木漏れ陽は白く輝いて落ちていた。赤いコーヒーポットや鋸や金槌、ノートやキンカン(防虫用薬)など雑然と置かれたテーブルの上にも三つ、四つと、刻々その数と場所を変えながら斑点模様を見せていた。森の頭上に達する大木は普段と変わらず黙して剛然としていたが、その下、地上から四、五メートルのか細い木々一刻を争って、日差しを浴びるべく、首を伸ばし、振っているように思われた。だが森はこれまになく引き緊まって、静かだった。なにかの用事で席を立っていたのだろう。知らぬ間にテーブルのおよそ半分が光に占領され、開かれた�病める舞姫�が異様に白く輝いていた。立ったまま驚いて眺めていたが、活字が二センチほど浮いて、整然とした面を作っていた。活字とは、こんなに美しいものだったのか、書物とはこういうものなのだ、と感じ入った。気が着くとその活字の透明な面の下の見開きの白い頁に、黒ずんだなにかが靄のようにかかっていた。豁然とした活字の面からこの靄は次第に遠く退いてゆくように見えた。私の�病める舞姫�のほとんどの頁は読むたびに鉛筆の書き込みが増え、しかも行を横切った線が交差してあって、読みずらいほどに汚れている。その汚れが靄なのではないか、活字の面との間に厳然とある距離を認めねばならない、ひょっとしたら、美しいのは活字であって言葉ではない、ということは言葉を読むな、活字を読め、活字を見よ、ということか、などと呆然としていた。そして木漏れ日の皮肉を込めたいたずらと考えた。しかし、つぎの時間、土方巽と過ごした二十数年、現実的な交際は明解であっても、そこから私が紡ぎ出したもの、それは電灯の下、夜の自分勝手な想念、夜想であるという事実に初めて気付いたのだ。そして、それが靄なのだ。木漏れ日の下で書物を開く記憶に、ついに行き当たらなかった。私は急いで�病める舞姫�を閉じ、洗濯物をビニール袋に詰め込み、身体気象農場に向かって谷を出た。谷の小川は浅くて衣類を洗うことができないからだ。(寄稿)
 別記=不安を感じながらも執筆を復活します。

合田成男 雑話 6

普段、そう呼んでいるように大野さんと記そう。十月二七日に九十四歳の誕生日を迎えた老舞踏家大野一雄氏のことである。
 先立って、十月十七日に大野さんの公演「宇宙の花」をルネこだいら(小平市)まで見に行った。その舞台で大野さんが後ろに倒れ、床に後頭部を打ち着けるという思わぬ出来事に出会った。ゴム製のマットが敷いてあったから、という冷静な判断に後で納得したとはいえ、その鈍い音は会場にはっきりと響き渡り、花飾りの着いたかぶりものは頭から外れ、はっと息を飲む瞬間であった。背中の丸いことが落下のスピードを緩和したとはいえ、首の筋力が頭の重さを支える強さを既に無くしていること、首だけではなく全身の筋力がかなり衰えている実態を如実に知った瞬間でもあった。二、三年前から大野さんの公演を見にゆく度に、最後かも知れない、という思いが頭の隅にある。だが、この思いは舞台の上ではなく、むしろ日常生活のなかであるだろうと決めていたようで、それだけにこの事件は私にとって衝撃であった。
 とはいえ、私はこの出来事を巡る周辺の事情を記述しようとは思っていない。また、大野さんという舞踏の先達がこの出来事を通して開示しているだろう教訓を抽出しようと試みているわけでもない。ただ、私が見たもの(見たように思うもの)あるいは感知し、空想化したことを述べようと考えているに過ぎない。そして、この夏、山梨の白州町の谷間で私をしばし呆然とさせた透明な膜の上に整然と並んだ活字の美しさに対位するものを大野さんの舞踏に発見、指摘できるかどうか、を賭けてみたいと願望しているのだ。それらの活字は私の土方巽についての想念を「夜想でしょう」と皮肉のまなざしを投げかけた。そのまなざしに応えねばならないと帰宅後、二ヶ月、ときに気になって仕方のないことであった。ことばでなく活字である。しかも活字が透明膜上に整然と並んでいることである。ということは活字そのものが手を取り合って面を成そうとする空間性を持っていることを示してしる。また、それが紙面から二、三センチ浮上するエネルギーとなったのだろう。もちろん、そこに私の視覚を狂わせた木漏れ日や狂わんばかりの晴天があった、そのような条件を無視するわけにはゆくまい。
 さて、この活字に対位すべき舞踏の要件を大野さんの舞台で捜してみよう。ことばを用いて記述しなければならないこと自体が極めて困難であり、不可能事であるように思う。家族によれば、その日その日によって体調がひどく変わるとある。しかし、体調の不安定は舞踊作品の整合性すなわち創作性を壊し、現象としての踊りを強調する結果をもたらす。曖昧な情緒やからだと懸け離れた観念はこのようにして駆遂できるだろう。ただ、からだも、同時に、不安定を根拠とした代替の表現、作品の新構築への意識や意志を持たねばなるまい。不安定は根で生の危機感に連なっているからである。いい換えれば、時々刻々、踊りへの焦点を模索、受能し、逃さないことである。
 舞台は三つの作品「ノイエ・タンツ」「クラゲの踊り・戦争で死んだ友のために」と「宇宙の花」で構成されていた。生涯でのそれぞれの時期を経て、小さな花にも宇宙があると観る現在に至るという構想であろう。あるいは現在から過去を見るという逆の視線があったかもしれない。大野さんの体調が悪い。公演冒頭からバランスを失してよろよろする。踏み変えや踏ん張りばかりの踊跡は作品の、舞台の焦点、大野さんが個的に意志する方向性を顕すには至らず、いたずらに宙を掴むような動きに終始した。大ホールの舞台に特設された四方客席の新ステージは長方形の一辺が長過ぎること、十数メートルの頭上から照射される光は拡散して周辺を平坦にすること、大野さんが大野さんの踊るにふさわしい条件が見当たらない。その不幸をまともに受けてしまったようだ。かつてのモダン・ダンサーとして華麗な情緒を発散させるひと昔もふた昔も前の情景に連なるものは皆無だった。第二の作品は戦後の引揚げ船で死に、水葬された兵士たちと大野さん自身を分けた、すなわち生死を分けたものが栄養失調であったと語り、「悲しかった」五十余年前の感情が、からだの動作が加わって「悲しい」といういまの感情に連続する極めて説得力のある、芯を持つ作品となった。気の済むまで叫び続ければ、この感情は鎮まり大野さんの新境地と評価されただろうと私は思う。予定された十八番、リストの「愛の夢」は披露されなかった。この「愛の夢」のためのブラック・スーツは、舞台現実の時間を無視し、突き進む悲惨な物語にふさわしい衣裳に変わっていた。ピアノ曲が終わり、大野さんも拉致された。この挫折が最後の「宇宙の花」に尾を引いたように思う。老人のからだは狭められた視野を深く生きることに自らの開放を感知するものだ。最初から大野さんのからだは大揺れだった。だっだっと二歩も三歩も退がらねばならない危なっかしさだった。遂に耐え切れず、仰向けに倒れ、頭を打った。しかし、ここからが見所となった。いわば修羅場をつぎつぎと凌いでゆくのだ。転倒は彼に覚醒をもたらした。立たねばならないという意識がこの日、初めて芽生えたようだ。両手を床に着け、腰を上げ懸命な努力を見せる。しかし、これは拙いやり方だと思う。しゃがめばよい。膝に手を置き、中心軸を探って徐々に持ち上げればよい。この方法はこの夏の独居で知ったものだ。立とうとする気持ちよりも、むしろ蹲がむこと、腰そのものが最も低く、地上すれすれまで降ろせばよい。以外に容易に立ち上がれるものだ。だが、大野は床に着いた手の支点を徐々に指先へと移動し、ふたつに折ったからだのバランスを取ろうとする。そして諦める。表現者大野一雄はここで落ちることを選ぶのだ。残された舞踊表現は四ん這いだけである。
 私は秘かに木漏れ日の下の活字の美しさに匹敵する大野の動きは、立ち上がろうとして二度三度微妙にバランスをとろうとする床に触れる指先の移動と四ん這いになって、獲物を求めるライオンのように、力を充足させた全身歩行、その肩、上膊、首、背、腰といった一連する部分の機能だ、と思っている。

合田成男 雑話 7

幕の開かなかった永田町・自民党の政治劇については既に多種多様の意見が現れて、いい尽くされたようにも思うけれど、私は私なりに舞踊批評家として、からだの側からかなり無責任な発言を試みようと思う。からだには自他ともに未知の部分があって、だから発言という二者を結ぶ表現は致し方なく想像や空想、ときに幻想にさえ頼ることとなる。特にこの政治劇登場人物は普段の私から遠いだけに、垣間見たそのことだけが勝負となる。従って私が白といったことも黒といい返されるほどの不安定なものだ。無責任といわざるを得ない。
 からだの側からこの政治劇全体を見渡して、不思議な思いを禁じ得なかったことがある。それは登場人物の誰彼を問わず、からだの持ち主ではなかったことだ。劇を演ずる資格の有無を、まずは問われる程度の役者であったということだ。ここでのからだは、舞踏におけるからだほど厳密ではない。表現のための素材としてのからだと生命を宿した主体としてのからだを一体化する必然を前提とするような厳しいものではない。ごく普通のひとがときに見せる美しい物腰に匹敵する政治家の正しい物腰を身に着けているかどうか、この辺の資格の有無を判断する根拠としてもよいようだ。ところが物腰は日常の感性の積み上げから発するものだから、その政治家の政治の質を顕わすものと秘かに見盗ることができる。
 例えば、暫く前のことだが、英国のブレア首相が森首相を官邸に訪ねたとき、いつも通り、あいさつと握手、向き合う光景をテレビのニュース番組で見ていた。ブレア首相は少しからだを前に掛け、にこやかな表情で話しかけた。森首相は悠然と直立した姿勢で、かすかな微笑で応えた。当然、報道カメラ陣は一斉にシャッターを切った。途端に、まだ、ブレア首相が上体を森首相の方に寄せているにも拘わらず、森首相は顔をカメラマンの方に向け、にこっと笑った。からだは半身、開いてである。その反応はVサインをレンズの前に突き出す小学生低学年と同じだな、と私は呆れ果てた。ブレア首相は手を握られたまま、なにか気恥ずかし気に表情を納めるべく、後ろ向きに顔を伏せようとした。そして森首相に促されて正面を向き、にこやかな表情でその場を繕ったように見えた。軽佻にして愚鈍な行為だけで、英国の首相を迎える儀礼の感性は皆無だった 。
 普通の人がごく自然に振るまって事を成し得る日常的行事からさえ外れてしまう彼のからだとはどういうものか。逆に興味をそそられる。彼の生涯について私は無知無関心である。しかし、密室の謀議で誕生した森首相という存在には、その特異な作られ方に不審を持つという程度の関心を持った。当然、野中幹事長ほかの黒幕たちによって認知の手立てがなされ、森首相は公認された。公認された途端、風呂上がりのようなすがすがしい顔で放言、失言を繰り出し始めた。野中幹事長の表情が次第に硬ばったものとなったのは放言失言のせいではなく、それとともに現れて来た自民党支持率の低下という結果である。二五パーセントに落ちて、突如、加藤元幹事長がこのままでは自民党が駄目になる、日本が危なくなる、党改革を決起する。戦術は野党の不信任案に乗ることだけ。野中の恫喝が響き渡る。「除名」「禁じ手」といった厳しい言葉が飛び交い、また不信任案が否決されても森首相の地位は必ずしも保証されたものではない、という意味の発言が事もあろうに野中から出て、これを森首相の早期退陣の言質として受け取った加藤が決起の姿勢を後退させた、とうことらしい。しかし発言は取り消されたものの、加藤は態勢を立て直すことができず、涙を飲んだ。
 政治劇としては印象深い景があった。野中が先の発言を述べる係りで見せた姿勢である。両肘を椅子の腰掛けに置き、顔をカメラに正対させることなく、むしろ、伏目で顔も伏せて終始した喋りである。もっとも、ある番組のためのビデオの再放送なので時間の程は分らない。語調も普段の厳しさと打って変わって、籠り気味であった。元々、策士めいた昏さを持った人だが、妙にその昏さが形(姿勢)になって顕れており、観る者にいろいろな憶測をさせる力も備えていた。例えば、森首相の去就が混乱するような事態が起これば、劇の焦点が加藤の決起から密室の謀議に移って、その不当性を追求される危険がある、そのような杞憂とか、もっと単純に謀議が勇み足であったという個人的な悔恨とか、ともかく自らのからだのなかを覗き込んでいる姿勢である。ただ、気概を込めて永田町に居着いてしまったので強面になってしまった。役所を自ら狭めてしまったようだ。二五パーセントという数字を決起の根拠とした加藤は、一方で、あの人(野中)より(修羅場をくぐった)経験は多い、とも(報道陣に)答えていた。数字は正確だ。しかしその正確さは結果においてである。その結果は刻々に変わる。なぜなら人のからだはいつも揺れているからである。一歩、歩けば景色はもちろん、気分も、運命も変わるのだ。だのに加藤は第二幕、第三幕までも用意しているといっていた。手痛いキズを負わされた手負いの狼軍団にまず成らねばなるまい。そして、狼籍の限りを尽くす。そのような台本に書き直してみれば。数字は霧散し、そしていつか揺れる数字を確保できるかもしれない。
 森首相については、朝日新聞に載った料亭通いの報道に驚き、感歎し、飽きれ果てた。一ヶ月に二十八晩(?)赤坂近辺の高級料亭やホテルで会食をしているという。料亭政治は止めようという呼び掛けが何年か前にあったと記憶する。また一警察の一部下の会食もチェックされる最近だ。そんなことがチラチラと横切るけれど、そのようなことは誰かに委ねられよう。私が驚き、ときに感歎し、飽きれ果てるのは、特種な場所で、選ばれた人、山海の珍味、美味に囲われて、それをリラックスのための日常的な手段(周辺)とすることによるからだの、変質、庶民との乖離といった政治家としての衰弱がやがて来るような気がすることだ。美味も毎晩、重ねれば美味と感じなくなるのではないか。
 まったく嫌な原稿になってしまった。ああ!

合田成男 雑話 8

一粒のぶどうを噛んだ。その甘味と香りが口腔にぱっと拡がり、いささか昏く鎮静していた私の味覚を切り裂いた。「うまい」と反応したわけではない。喉元からいきなり感嘆とも驚きともいえる感覚に結び着いた味覚であった。その甘味と香りは果肉とひと固まりになってゆっくりと私のからだのなかへ降りて行った。固形物や冷たいものが食道を下ってゆく感覚ははっきりあったけれど、この固まりが降りて行った私のからだのなかには食道という器官はなく、篭状とも壷状ともいえる形の空間だけの広がりがあった。その広がりには際限があるようでありながら、暗くて見極めがつかない。ただ上方からは外の光が差し込んでいるようで胸部のあたりはほの明るく、ぽっかりとした広がりが見受けられた。そこには水ではない、空気でもない、いわば水分を含んで明らかに物質となった気体が緩やかに満ちていた。小粒なぶどうの果肉は垂直にゆったりと降りて来た。その微妙な速度は物質となった気体との均衡によるものだろう。そして、絶えず美味と香りの丸い水滴を放出していた。その水滴はさらに小さく分解され、微粒子となってこの物質と混り合うのだ。沁みてゆくのだ。私はどこまで、この味覚が拡散してゆくのだろう、と問い掛け、胸郭を開いたことをかすかに記憶している。多分、この美味をからだ中に拡げ、持続させてみたかったのだろう。ふと気着いてみると、戸外のディレクターズ・チェアーに背を丸めて寄り掛かっていた私が、背骨を立て、肩を下げ、腕を下げ、そして顎を懸命に突き上げて精いっぱい首を伸ばしていたのである。「まるで鳥じゃないか」と苦笑したものだ。鶴が高々と首を立て餌食を呑み下す仕草でも連想したのではないかと思う。美味を呑む形なのだろう。もちろん、このとき、味覚は既に消滅していたものの、微粒子となった美味はからだのなかの、あの暗い部分に組み込まれ、棲み着いたという妙な満足感を感じたものである。
 この一粒のぶどうはこの夏(現在二○○○年十二月二三日夜)白州町の森の中で独居していた私を訪ねてくれた田中泯の手土産から選んだひと房、その先端の一番小粒なものである。丁度、桃花村のヨーロッパ公演を終え、白州の新しい屋外のけいこ場でワークショップに取り掛かる寸前の暫時の訪問であった。確か、八月十七日、昼時のことである。「途中(街道の出店)で買いました。走り(初物)ですが、おいしいですよ」と言い残して谷を出て行った。しばらくぼんやりと座っていた。これは八月四日以降、食後の決まりとしていた治療の一環であった。胸と背骨が痛み、歩行が困難となり、食後すぐに動くと胃が痛み、胃の当たりを押さえて全身を縮めねば耐え得なくなっていたからである。過去の経験を元に、既に急性の胃潰瘍と自己診断し(事実であった)食餌や生活方法を変更していた。だから、この時ぼんやりと座って、泯さん、かなり疲れているなあ、と思い、八王子以来、十五年ぶりに見られるワークショップはどんなふうに変わっているか、興味深く空想したりしていたのだ。そして「おいしいですよ」といった言葉はもちろん、テーブルの上のぶどうとその側に座っている私との関係はふっつりと切れていたのである。そこにぶどうがあるから一粒摘んだのか、ただ食べてみようと思ったのか、いまはもう思い出せない。
 このぶどうを食べた日から二、三日後に味覚とはかかわりのない幻視がやって来た。時刻は午後四時近く。この谷間は三時半にはさあっと暗くなる。陽が狭い谷の対岸の稜線、その上の大木の葉の繁みに隠れるからだ。私はポットの上のコーヒー濾し器に湯を注いでいた。ぼちぼち夕食の用意だけでもしておかねば、などと考えながら。やっと熱湯を差し終えて、森の日常の定位置、低姿勢ともなっていたチェアーに座り、下流方向に視線を投げかけた。と、そこに歩いている人がいた。セピア色の少し滲んだその人は、左から右へ、流し場の小川の方へ歩いていた。普段、私が歩く踏みならした通路から二メートルほど向うを狂いなく水平に通り過ぎたわけである。路も二メートル向うに後退していた。食器を入れたザルを大事に胸前に持っていた。誰でもない。それは明らかに私自身であった。すなわち私自身の右横顔、右体側と出会っていたことである。等身大のようでもあったが、四、五メートルの距離の縮み、やや小振りのように感じていた。まったく驚くことはなかった。むしろ、私の影、分身が見事に水平歩行をこなしていることに、励まされていると感じた。この森での独居を始めた早々から、私の関心は水平感覚の獲得にあった。思考や志向は始終、訪れて来ていたが、それはなかなか、からだのなかに降りることなく、精々、大地、土に極端に近く(土まみれ)身を置こうとして苦労していたに過ぎない。私の影、分身はそれをそのまま認知、許容してくれたようである。突然の訪問は私にとっても幸せなことであった。
 あと何日を数えるようになった独居の終盤にもうひとつの幻視が訪れた。今度は、影ではなく私が流し場へ降りてゆく番である。食器類をザルに入れ、根っこの露出して来た通路を歩いていた。突然、その歩行(水平ではない)を遮るように、底なしの壷状空間が現れた。光の具合もぶどうのの場合とほぼ同じだった。ただ違うのは随分、上の方から何か白いものが左右に揺れながら沈んで来ることだった。それが骨だけになった私自身であると気着いた、その途端に水葬の幻影はさっと消え、私はそのまま水の際へ下りて行った。からだのなかの死、ひどい衰弱への警報だったように思う。帰宅してシャワーを浴びた。かいなからも二の腕からも、内股だけではなく、ふくらはぎからも皺々した皮膚が垂れ下がっていた。自分のからだでないからだを検証しながら感嘆したものである。この幻視の水脈を捜してみよう、と思っている。
 実ハ、一粒のぶどうの体内感覚に触れたのは前号(十二月号)森喜朗首相の美食痴呆症に対比すべく、計画しておりながら、あと三十分、二十分と締切時間の切迫にあたふたとして、すっかり忘失してしまった遺恨を埋め合わせるためであった。外は二〇〇一年初春、二十一世紀の幕開けだが、からだの時間には関係ない。遺恨や懺悔を拾ってみようと考えている。まさにそのような生涯だったからだ。

合田成男 雑話 9

先日、珍しく雪の積もった横浜駅西口で滑って転んだ。転んだといっても、腰を着いたわけではなく、前のめりになって、手袋と左膝から下、ズボンをぐっしょりと濡らしただけである。ふだん、雨の日にはそこを歩かないようにしている慣れた場所なのだが、歩道いっぱいになって駅に向かう人の群を避けて、一段高い通路に上がってしまった。ビルディングの敷石が一メートルほどはみ出している部分で、日中なら青空を映すほどに磨かれた茶褐色の敷石で出来ており、歩道の方に、ほんの心持ち傾斜しいる十数メートルの、いわば、歩道の待避歩道である。雪の下の条件を知っているのだから、用心し、足に目玉を着けて歩いた。ところが、喰わえたばこに雪が降って、煙の通りが悪くなった。もうひと息、吸いたい。手巻きたばこを切ろうした。だが、両手とも手袋、爪が立たず、もたっとした瞬間に右足を取られた。一度は踏んばったものの、淡雪の下は水深二センチほどのプールだった。からだを左に傾げて落ちた。「滑る!」「滑る!」三人組みの若い娘が嬌声を挙げて、からみ合い、四つん這いになった私の横を通り過ぎた。情けない思いとともに、頭も腰も打たずにすんだ無事に安堵した。落ちてゆくときの、足元の雪の昏さ、からだの捩れ、泳ぐ手、落ちた姿、形が一瞬蘇った。ひと昔前なら苦笑し、もっと若ければ照れ笑いしただろう、などとも思った。ゆっくりを起き、用心して歩道に降り、降り積もった白い雪を踏んで、左手首の軽い痛みを摩りながら歩き出した。そして、雪の宵には、人はみな水平に歩くのだ、とひとり合点した。
 この水平という言葉、およそ半年、ずいぶんこだわって来たものの、まだ私には馴染んだものとなっていない。しかし、これは去年の夏、白州の森の独居の結果を総括する言葉として当時、選んでしまったという経緯がある。簡単にいえば、生の垂直軸に対する生の水平感覚ということだ。舞踏あるいは舞踊にかこつけていえば、舞踊手が立つ床のこととなるだろう。土に種が蒔かれ、季節を得て、芽を出し、畑を彩る野菜となる。あるいは花となり、樹木となる。このような生成の原初を確かめたかった。それが独居の根拠であった。雪が垂直型の都会を消し去った。ひとびとはその原初の歩行に戻らざるを得なかった。雪の上に足を出し、神経を集中してしっかりと踏みしめ、ゆっくりとやや閉ざした上体を移す。私が歩道の向こうに見た勤め帰りの人たちのくぐもりは舞台上を歩く舞踊手の歩きの正しさに匹敵するからだの水平な所作であったように思う。ところが、私が待避歩道に乗り、転倒するまでの瞬時、実は彼らの歩行に一顧も与えず、転んだあと、彼らと同じ白い雪に乗ったとき、人みな水平に‥‥と呟いたのだ。ということは、待避歩道上での、転倒に至る私の体験を人みなに仮託したということだろうか。いずれにしろ、転ばずして、彼らのなかを通り抜けていたとしたら、こともなく日常のなかに雪も、人のからだも埋没してしまっただろう。その一月二十日、最初の雪の日、メディアは横浜地区に関して転倒事故の報道はなかった。ひょっとしたら、当日(ひっそりと)転んだのは私ひとりだったかもしれない。
 別に転ばなくても、水平感覚が向こう側からやって来るときもある。白州での、あの瞬間、甲斐駒ヶ嶽を主峰とする南アルプスの連峰、百五十度のパノラマが一挙に箱庭と化し、麓の整備された階段状の田圃が上から順に、その山の底に滑り込んで行ったときのことだ。箱庭の山はどのようにして作られるか、私は知らないけれど、水平面を重ね重ねして出来上がるものと確信した。懐かしい等高線などといった言葉を思い出しながら。信じ難いほどの晴天、光と熱の強圧に干からび、大地にへばり着いた山々を見たのが水平感覚の最初だった。ただ、山々と同様に驚異的な真夏日に直射され、痩せ細った私のからだにも、これほどの水分があったのか、と不思議な感覚を持った私の側のからだの条件もあったわけであるが。
 年が明けて、少しは日が長くなったと感じられる夕方、空にはまだ明るさが残っていた時刻に、行き慣れたスーパーマーケットに買いものに出掛けた。視力の衰えている老人には見難い、歩きづらい時間帯であった。スーパーへの曲がり角の手前は幼稚園、ここだけ、なぜか歩道が狭く、頭上に覆いかぶさる桜の列があって、対向して来る勤め帰りの人を判別するのがむずかしい。気配を感じて立ち止まることも何回か。その二十メートルを通り抜けて、やっと曲がり角に到達した。そこから約二十メートルほど下り坂になる。標高差はおよそ二メートル。緩やかな下りだ。ということは幼稚園の隣りのスーパーを見下すことになる。道に面したスーパーの総ガラスの壁面から店内の明るい光が、自転車置き場のある前庭を照らしている。この明るさと道につぎつぎはいってくる車のヘッドライトに目潰しを喰らい、足元の暗がりからぬうっと人が現れる、という状況にしばし、立ち呆うけになっていた。どの時、スーパーのA館からB館へ、またその逆に道を越えて往き来する人たちがみんな小さい影になっているのに気着いた。その様子は蟻というよりも駒落としの映像を見ているようだ。道はすぐT字路になっていて欅の大木が数本、その後ろの高台は相模平野を南北に走る防風林、スーパーの背後は川の土堤、そこは窪地という舞台であるわけだ。目新しい視野が立ち上がって来た。なぜか、私はその光景を水平と感じ、ほっとした。
 水平感覚とは、こちら側のからだに小さな異変が起こり、また外部の景色にもどこか非日常の条件が加わって、相互にかかわり合い、現実や日常に亀裂が生じることに拠っているとすれば、雪の日の足元の不安定、真夏日の大汗の怖さ、スーパーの日の呆然とした佇立、からだのなかの嗅ぎ取らねばならないような状態を見逃してはならないことのようだ。

合田成男 雑話 10

去年の九月二日に四十日間の森の独居を終えて、白州を去ってからちょうど半年あまり、再訪する機会に恵まれた。三月十七日、唐松林を切り開いた露天のけいこ場を舞台に、その前週、plan Bで掛けた桃花村公演、ゴヤ・シリーズ「微笑の計測」が引っ越し上演されることになったからである。
 この企画をチラシを見て知ったとき、即座に、行こう、と決めた。唐松林のけいこ場は、その杭打ちから床張りまでときどき見に行った。森で独居していたからである。工作の進展に立ち会うのは限りなく楽しいことであった。桃花村の若い人たちが力をこめて杭を打ち、精測する姿に接するのも興味深かったけれど、切株の残る緩い傾斜地に、徐々に形を成して来る水平面を目前にして、完成を想像するのはこの上もなく楽しいことであった。既に胃潰瘍を肺気腫に苦しんでいたその時期、大変な慰めでもあった。舞台は田中泯さんの国際的なワークショップのために駆け込みで完成した。林の入口から見ると、ほの暗い唐松林のなかにぽっかりと出現したその空間は、舞台ぎりぎりまで迫った樹木にしっかりと囲まれ、粛然とした気配を漂わせていた。十メートル四方の舞台にそっと上がり、その中心に寝転び見上げると、正方形の天井は青空、雲の流れが刻々と速い。十数メートルの唐松の側壁、いわば深い箱形の底から仰ぎ見る雲の流れは殊更に速いということである。林を潜る風は柔らか、羽虫もつぎつぎと襲って来て、床一面だけ、最初の劇場は多分、こんなふうだったのではないかと思ったものだ。ワークショップを終えて、引き揚げたはずの外国人ダンサーが戻って来て、ひっそりと舞台の隅に立っていたり、カメラ取材に来た芸大生に先客然と招き上げられ、そのまま三、四十分、舞踏について喋ったこともあった。また、傾斜の仕事の合間にだろう、ふらふらと現れた玉井康成君に呼び掛けられ、半ばうっとりとしていた衰弱から助け出された思いも経験した。
 さて、この森の舞台での最初の公演「微笑の計測」は私の予測をいきなり覆してしまった。いきなりとは、会場に着いた途端、舞台上に観客が既に座っていたことに驚いた気持ちそのものなのだ。この予測にはこの舞台に対する私のごく自然な思い入れのほかにもうひとつ別の根拠がある。plan Bで初演されたこの作品に、これまでの桃花村の舞台に見られなかった成果、すなわち共演者相互の関係性、ここでは中心的な存在である玉井に投げかける微笑を、出演者個々が布石された関係性にふさわしく、微笑のさまざまを発見し、表現しようとし、ときに見事に関係性を作り上げていた。その結果として、狭い空間は次第に濃密になり、白っぽい、粉めいた肌合が顕れた。これも桃花村公演では初めての経験のように思われた。泯さんから作品の構成は基本的に変わらない、聞いたのは初演後である。私は、ふたつの舞台の対照的な質の違いから、肌合いを予測から外し、もっぱら踊り手たちの、より明確な微笑の交換を期待した。それはからだの問題に帰結するものの、立ちようによっては舞台空間に救われることもあるのではないか、これが私の予測であった。
 予測が覆されたことは私にとってなんの衝撃にはならなかった。むしろ舞台に座っている観客を見て、一週間前の初演後に予測したそのことを思い出した、というのが実際である。そして、その予測をいま、さらに思い出し書き列ねているのが事実なのだ。いい換えれば、忘れていた予測、この距離(時間)を一挙に縮めて、目の前に展開する表現とからめて構築する(議論化する)ほど、いまの私は器用ではない。だから森の舞台で行われることをひたすら受容しなければならなかった。いま、やっとふたつの「微笑の計測」を見較べ、判断するときがやっと来たように思う。
 「微笑の計測」plan B版が白く粉っぽい肌合を結実させたと先に書いた。その肌合いは、自殺願望を誇示しているかのような男と、それを軽蔑し、結局は幇助者となる(?)女たち(デイナ、石原志保)や関係者でありながら為す策もなく見守る女、あるいは死者(モリーン)らが共有する庶民の領域を内包するものだ。狭い生活空間と親しみのある愚かさとでもいえようか。これに対し、白州版は森の舞台の環境(空間性)に配慮して、この物語を極端に地上的なもの、悲惨に落とし込めようとしたところに作者の意図が強く働いていた。それは三月半ば、標高七百メートルの高原はまだ寒いし、開演時間を夕暮れの迫る五時と設定したあたりにも測られるのだが、作品の前半を舞台奥の林間、草地で上演、後半の首吊りシーン以後は舞台で処理された。小雨まじりの天気だったが、白い衣裳もそれほど汚れず、必死な愚かさにまで降りることはなかった。なぜか。妙に、微笑も潜み、動きも硬く、少し凍えたような不自由なからだが印象に残っている。
 以下は私事である。この半年の間に、何人かの人から、今年の夏も白州に行くのか、と聞かれた。そのたびに否定した。最初で最後と既に決めていたので返事し易いのだが、妙なことに最近になって、白州へ行くこと、殊にあの谷間にはいって行くことが怖い、と感じている自分に気着いた。理由はまったく判らないまま「微笑の計測」白州版を見にゆくことになってしまった。韮崎からの横手ゆきのバスで親しい若い女性たちといっしょになった。はじめ、気楽に言葉を交していたものの、次第に無口になり、長い橋を渡って白州町に入る頃にはすっかり興奮状態となっていた。あと五百メートル、運転手に降りることをいわなければならない。前に席を移した。「あら、降りるんですか」と誰かがいった。バスは小さい橋の袂で停まったものの、運賃の硬貨が掴めず、床に落とした。手の震えを見て運転手が拾ってくれた。やっと道端に立つことができた。手を振る女たちを乗せてバスは走り去った。
 息を拭いて谷にはいった。最初の丸太橋を渡りながら、夏、急流の音しか聞こえなかった川が見通せるのをふしぎな気持ちで見た。坂道にはいって驚いた。森に緑の葉が一枚もない。確かめようと急いで坂を登った。全山、黄色の枯葉に埋まって、からっと明るく、優しく、怪しい線や面を見せていた。私の掘立小屋はドアが倒されていたほか、しっかりと建っていた。テーブルの上に一升瓶が立っていた。突出している異物は小屋とごく近くの苔むした軽トラックの頭の部分(坂口寛敏・野外美術工作物・一九八九)だけ。小屋まで降りてみようかな、と思ったが、なぜか、私の足は一歩も動かなかった。依然として怖いという気分は解消しなかった。
 帰宅して二、三日後、突然、悲鳴という言葉が浮かんだ。悲鳴を上げているからだは意識できない。しかし、それはからだのなかに在る状態なのだと解った。怖いという感情の源なのだ、と判断した。ふと、その悲鳴と微笑の距離はどのくらい、などとできない計測を計測してみることもある。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源1

日本における西洋舞踊の歴史を調べていくと、奇妙な事に気付かされる。記録に残っていない時代は別にして、初期の西洋舞踊(註1)がオペラやオペレッタに必要な技術として日本で成長をとげて来た事は周知の事実であろう。
 それが関東大震災以降のムーラン・ルージュやカジノ・フォーリーあるいは宝塚・松竹両歌劇団が隆盛を極める昭和ともなると、オペレッタのみならず風刺的寸劇(バーレスク)やレビューやボードヴィルの要素も含み、舞踊史ともオペラ史とも演劇史ともつかぬ、芸能全般を俯瞰(ふかん)した視点からでないと、その全体像はつかみがたい。つまり当時の軽演劇の喜劇俳優であるボードヴィリアンは、俳優のみならず歌手であり寄席芸人であり、その多くはダンサーでもあった。
 また大正期の歌舞伎の舞踊技術には、ロシア・バレエの影響が見られるし、同時代の藤蔭静枝(初代)や花柳寿美などの、いわゆる新舞踊には、ロシア・バレエのみならず未来派・ダダイズム・構成派、そしてモダン・ダンスの影響が色濃く表れる。これを日本舞踊つまり邦舞の特異例とのみ片付けるわけにはいくまい。
 それだけならまだよい。大正中期の浅草オペラ全盛期ともなると、俳優個々の前歴が古くは壮士(そうし)芝居に始まり、新劇・新国劇・新派・曽我廼家(そがのや)劇(現在の松竹新喜劇の前身)・小芝居(こしばい 註2)等を次々と経ている場合が大多数なのである。この他に、当時の人気が松井須磨子をも凌(しの)いだ《魔術の女王》松旭斎(しょうきょくさい)天勝一座を加えてもよい。それぞれが俳優の個人史的関係で結ばれているのみならず、現在考えられがちな接触の無い別ジャンルのものではなく、時には商売敵やライバルでありながら、親しい交流もあったのである。たとえば天勝一座のダンス指導は高田雅夫(高田せい子の夫)であったし、浅草芸能人のボスであった曽我廼家五九郎の一座には歌劇部があった。また五九郎の師匠の曽我廼家五郎はヨーロッパ外遊の際に、同行した愛妾をパブロワのダンス・スクールに留学させて帰国している。そう考えると新喜劇の世界にも、オペラやダンスの流行があったとしか思えない。天勝の『サロメ』を演技指導したのは小山内薫であるし、その小山内が常連であった日本で最初のカフェー『プランタン』に女王然としていたのが、まだ新橋の文学芸者であった頃の初代藤蔭静枝である。小山内は常連で親友の吉井勇と語らい、文学の先輩であり同じく常連客の永井荷風をたきつける一方、藤蔭の方へも煽(あお)りを入れて、まんまと二人を結びつけ、後に荷風は親の意向でもらった妻と離縁して藤蔭と夫婦になる。永井荷風は米・仏で本場のオペラをあびるほど観てきた明治時代きってのオペラ通・洋楽通であり、荷風の終生の夢は彼の地で観たオペラを日本で、しかも自分の手で作りあげる事であった。
 ここで小山内の家系についても触れておこう。妹の岡田八千代は黒田清輝の片腕であった洋画家の岡田三郎助夫人。この八千代が長谷川時雨(しぐれ 劇作家。夫は『雪之丞変化(ゆきのうじょうへんげ)』の作者三上於菟吉(おときち))とともに主宰したのが雑誌『女人芸術』であり、大正末から昭和初期のフェミニズムの牙城となる。この『女人芸術』のサロンには女流文学者のみならず、日本オペラ界の最高のプリマであった原信子(帝劇歌劇部の音楽教師。石井漠・伊藤道郎(みちお)・高田雅夫・高田せい子も彼女の弟子。特に高田せい子は妹のように可愛がられ雅夫が亡くなるまで原せい子を名のる。)も常連であった。
 長谷川時雨は大正元年に六世尾上菊五郎と舞踊研究会を始め、大正三年小山内をゲストにスライド映写によるロシア・バレエの紹介『露西亜舞踊講話』を開催。この時雨の『歌舞伎草子』(大正三年)を改題再演したのが藤蔭の新舞踊作品『出雲の阿国』(大正六年)であった。小山内薫・八千代の兄妹の従弟が洋画家の藤田嗣治(つぐじ)。嗣治の長姉の息子がダンスや洋楽の評論家であった葦原英了(あしはらえいりょう)。この三人は同じ家に同居した時代もある親しい血縁者であり、英了は二人の叔父と小父(おじ、英了の表記に従う)に溺愛されて、その影響下で育つ。
 以上のべて来た事は、日本の西洋舞踊史の周辺のささいな問題かも知れない。しかし舞踊史だけの研究では観えて来ない謎の解答も、こうした迂回を経る事で全体像がはっきりと見えて来る可能性がある。まだまだ語るべき事は多く、今回の概略的にのべたエピソードも、舞踊史を解きあかす手がかりの氷山の一角にすぎない。次回は日本で最初の女流ダンサー(ダンサー傍点)であった川上貞奴について──あたりから始めよう。
 
 註1──この場合、鹿鳴館などでの娯楽やコミュニケーションのための社交ダンスではなく、観客を前提とした芸術表現の舞踊。)
 註2──自前の劇場を持つ大歌舞伎(おおかぶき)に対して、大多数の劇場を持たない歌舞伎や大衆演劇を演目とする一座の総称。つまり現在の梅沢富美男などの一座も、もとをただせば小芝居の歌舞伎であった。)

村上裕徳 日本現代舞踊の起源2

ここに一冊の書物がある。外題(げだい)を角書き(つのがき)に『異国遍路』と田の字型に四文字刻んで、本題を『旅藝人始末書』と記されている。著者は別府亀の井ホテルの経営者で宮岡謙二という人である。当初『異国遍歴死面列伝』として昭和二十九年に私家版が少部数刊行され、昭和三十四年に修道社より公刊されたこの本は、幕末から大正末年に至る、有名無名を問わない旅芸人を中心とした日本人の海外渡航列伝である。後に中公文庫に収められ、現代では手軽に読むことが可能になった。好事家の書物にありがちな資料の杜撰(ずさん)さや偏屈さは見られず、アカデミズムがとうてい及ばぬ造詣の深さと、現在では誰も書けなくなった軽妙にして洒楽(しゃらく)な戯作文に裏打ちされた、痛快きわまりない日本人列伝である。海外渡航に関する三千巻にものぼる書物からの知識の集積であるが、それだけに終らず痛切な庶民論や日本と東洋・西洋の関係を深く考察した卓抜な日本人論にも成っている。この手の本としてはおそらく空前絶後のもので、私には神か悪魔でもなければこれほどの本は著せないとすら思われる編年記である。登場する曲芸団つまり現在のサーカスの芸人達、手妻使いつまり手品師、相撲取りなどのスポーツマン、主として邦楽を中心とする音楽家達、講談・浪花節語りなどの寄席芸人、大道芸などを含めた雑芸人、そして万国博などのコンパニオンとして派遣されるの多かった芸者達……。
 場合によっては、それらが渾然一体となって海を渡っているのだ。そのサワリを少し引用すると、<慶応二年の秋、西へ向けて日本を出たもの、すなわち異国を遍路する旅芸人の先頭を切ったのは、アメリカのベンコツに年千両、二年の拘束で買われた独楽(こま)廻し、軽業師、手品師などの男女十四名である。そのなかに、「曲独楽」の十三代松井源水と女房、娘、「自動人形」の隅田川浪五郎、女房の小まん、浪七、「浮かれ蝶」の手品をやる柳川蝶十郎(本名は青木治三郎、初代一蝶斎の弟で二十歳)蝶吉のほか、山本亀吉、同小滝、太郎吉、矢奈川嘉七の名が拾える。八っつと七つの少年もまじる。その道中双六(すごろく)の上りは、もちろんパリの万国博だ。ところが、おもしろいことには、この旅芸人の一行は、幕府がはじめてイギリスに送った留学生十四名──中村敬輔、外山正一、菊地大麓、林薫たち──と、おなじ人数が、しかもおなじ船で、でかけている。あとでは、わすれはてられる旅芸人と、明治文化史に大きくクローズ・アップされる留学生が、下等上等船室の区別こそあれ、たまたま乗合船でいっしょにゆられながら、ヨーロッパに渡っている。これは、まことに奇縁である。《中略》 松井源水は、まずお手のものの「曲独楽」をあれこれと十一種も用意してきている。ヒモとともに目方が七貫二百匁もあるという三尺五寸の大コマを、かるがるとまわす。フィナーレには、そのコマが、まんなかから二つにわれて、娘のおつねがキモノ姿でキョトンととびだす。隅田川浪五郎の連中は、唐子、三番叟などのカラクリ人形を十ばかり、器用にうごかして東洋のエキゾチズムをただよわす。手品の蝶十郎は「バタフライ・トリック」でつくりものの蝶を自由自在に、空中であやつったあげく、最後にほんものの蝶を舞わす。「天地八声蒸籠」では、底抜けの箱から、いろんなもの、とくに、西洋人にはめずらしいウルシ塗りの椀や、タケ細工のかごなどを、それからそれへととりだす。見物はでて来る不思議さより、でてきたものに骨董としての価値をたたえ、目をみひらく、といった具合である。」
 ──少し解説を加えるならば、柳川蝶十郎の「浮かれ蝶」の「バタフライ・トリック」というのは、最近は誰もやらなくなったものだが、私の幼時の記憶によれば、舞台上で薄紙を指先で千切り取るか紙切り細工で瞬時に蝶をしつらえ、扇子の風でまさに本物のように飛ばせるという、かなりポピュラーな伝統芸である。佳境に至ると扇子ふたつで五六匹の蝶を舞わせていたと思うが、明治期にはもっと凄い名人が居た事だろう。ラストには紙細工が本物の蝶になって消え去るというトリックがあった筈だ。風に舞う紙が蝶に変わるというとオカルトじみてくるが、あるいは途中で本物の蝶にすりかえるか、冬眠させた凍蝶(いてちょう)を使って、風で舞わせた後で眠りを覚醒させたのかも知れない。いずれにせよ、見事な技芸であった。  話をもとに戻すと、幕末以来多くの日本人が海を渡った。大半は西洋文明移入のための政府高官や役人あるいは留学生であったが、その中でも特異なものに旅芸人がおり、大正末期までの六十年間には膨大な人数となる。その多くは目的地で好評のばあい当初の計画より長旅となり、渡航先での滞在数年のものも少なくない。ほとんどが無名の人々だが、その中で後世に名を残すほどのスパースターが天勝と貞奴であった。天勝については章を改めて記すので、まずは貞奴である。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源3

無鉄砲にも程がある──という言葉に従うならば、程度をわきまえないケタはずれの無鉄砲は川上音二郎と女房の貞奴であった。やりくり算段の結果、猿や熊や狸まで居る小動物園を併置した洋風建築の川上座を建てたまではよいが、高利貸しに追われるのみならず、座員は給金が低額のための不満から大半が離れてしまう。川上座を抵当にまたしても金を借り入れ国会議員に立候補して起死回生をはかるが、これも落選。せっかく手に入れた川上座ばかりか新居の洋館までも差押さえられてしまった。ここまでなら特別の話ではない。問題はここからだ。門下達の劇団との合同公演の失敗もあって捨鉢になった音二郎は、貞奴をともない商船学校から払下げの十三尺(四メートル)の短艇(ボート)『日本丸』に乗って、あろう事か、海外脱出を成そうとする。音二郎は海外渡航経験が無いわけではないから、正気の沙汰とは思えない。
 面舵(おもかじ)と取舵(とりかじ)の区別もつかないズブの素人の、しかも行先も決めてもいない旅である。明治三十一年九月十日に築地河岸から漕ぎ出したまではよいが、外海に出てからは荒海にもまれ、おりから二百十日の強風もあって小船は膝までの浸水。死を覚悟したあたりで、軍艦『富士』の灯を港と錯覚して横須賀軍港に迷い込み一難を逃れた。軍港部長の説諭(せつゆ)のかいも有らばこそ、猪突猛進(ちょとつもうしん)の二人は密かに『日本丸』に乗り込んで港を脱出。やっと辿り着いた先は伊豆の下田港。音二郎は豆と打撲傷で血だらけの満身創痍、貞奴は腰が抜けた上に差込み襲われる有様。九月十五日の『時事新報』は紙面に、<一葉の扁舟に棹して/川上音二郎米国へ押渡る算段/狂気か暴か判断つかず>──と見出しを掲げ、なかば呆(あき)れ口調で二人の粋狂を論じている。
 それでも二人はその後も航海を続けて、天竜川の河原に打上げられたり、アシカの群に転覆させられそうになったりしながらも、船が神戸港に辿り着いたのは翌年の一月二日。着くや否(いな)や音二郎は大量の吐血をして病院に担(かつ)ぎこまれてしまった。暴挙としか言いようの無い海外脱出計画が、あわや水泡に帰するかと思われたやさき、療養先に国際興行師の櫛引弓人(くしびきゆみんど)から米国巡業の話が持ち込まれる……。
 音二郎・貞奴の伝記を読んでいると、強烈な個性のブツカリ合いのせいも有るのだけれど、絶えずハラハラ・ドキドキの連続で飽きる事がない。急転直下に天と地が入れ替わるジェットコースターなみの人生遍歴である。しかも双六で遊ぶかのように屈託が無く、欧米へのコンプレックスがほとんど感じられず、どんな悲惨な状況でも、妙に陽気で賑やかでドライである。これは天勝・天一のコンビにも共通する芸人独自の気質と言えようか。抱月・須磨子とは正反対である。
 それはさておき、明治期において巡業を含め四度も欧米を視察し、本場仕込みの海外演劇の息吹を最も直接に大衆に伝達したのは、壮士芝居の開祖である川上音二郎をもって嚆矢(こうし)とする。坪内逍遥をはじめほとんどすべての演劇人は本場の舞台を観た事もなく、洋書だけをたよりに沙翁(シェイクスピア)を論じオペラを語り、演劇改革をいまだ画策していた時代の事である。
 旧劇(歌舞伎)に対する新劇(現代演劇)の父でありながら音二郎への歴史的評価は、キワ物めいた山師的側面ばかりが強調されがちであった。音二郎の演劇改革については後で記すとして、出たとこ勝負の腹芸と強運、眼から鼻に抜けるような頭の回転の良さ、わけても貞奴というジャジャ馬を乗りこなす名伯楽(はくらく)ぶりは音二郎一流のものだが、海外での成功の大半はゲイシャ貞奴のアイドル性に負う所が大きい。各国王族・大統領・舞台人・芸術家等々をむこうにまわして国賓なみの歓待と賞賛を受け「ヤッコ・ドレス」まで発売されるまでのブームともなると、単なるジャポニズムだけの興味とは言いがたい。
 海外には<女優>があるのに川上一座に女形しか居ない事を指摘された音二郎は、事のなりゆきから嫌がる女房の貞奴を説き伏せて女優に仕立てあげる。こうして冗談のように海外の地で近代日本演劇史の女優第一号が誕生するのだ。寛永六(一六二九)年将軍家光時代、風紀を乱すとして女舞(おんなまい)・女歌舞伎が禁圧されて二百七十年間、日本演劇に登場する女性はすべて女形が演じてきた──とされるのがアカデミズムの演劇史の定説である(歴史書にはほとんど記されていない貞奴以前の明治期の女歌舞伎については後に別項で記す)。
 日本での貞奴の初舞台はそれから二年後、明治三十六年の明治座公演のシェイクスピアの翻案劇『オセロ』である。ゆくりなくも女優になってしまった貞奴は、明治四十四年音二郎の死とその後七年ばかりの引退興行(大正六年明治座公演『アイーダ』)まで、女優業にいそしむ事となる。