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村上裕徳 日本現代舞踊の起源4

川上貞奴は日本橋両替町で書籍商と両替商を兼業し、町役人もつとめる小山久次郎・タカ夫妻の十二番目の子として、明治四年七月十八日に生まれた。本名は貞である(以下しばらく「貞」と記す)。貞は七歳の時に家が没落したために、口減(くちべらし)として日本橋住吉町で芸者置屋『浜田屋』を経営する浜田可免(かめ)の養女になった。可免は二十九から後家を通して来たしっかり者で、置屋の女主(おんなあるじ)になる前は亀吉という強情とお侠(きゃん)でならした木遣(きゃり)のうまい芳町(よしまち)芸者であった。貞は養女としての期待もあって、幼時からあらゆる稽古事を厳しく仕込まれ、十二歳で雛妓(おしゃく 半玉)に出て子奴(こやっこ)、十六歳で一本立ちとなって奴(やっこ)を名乗った。
 ここで断っておかなければならないのは、貞は芸者であって遊女ではない。生家の家庭事情で置屋の養女になったとは言いながら、また、生家に幾ばくかの金銭が支払われた事は確かだと思われながらも、借金のカタとして売買され、返金が終わるまでの年季奉公(ねんきぼうこう)をしているわけではない。芸者にも売淫(ばいいん)は付物だが、遊郭の花魁(おいらん)を含めた娼妓(しょうぎ)(註1)のように廓(くるわ 土や石のかこい)の中に幽閉されている《性の奴隷》ではない。あくまで芸が建前(たてまえ)であり、仕事さえ熟(こな)されておれば自由のきく立場で、一般人と何ら変わりない《芸者》という職業にすぎない。わけても芳町の「奴」という名前は新橋の「ぽんた」とならんで、花柳界(芸者の世界)でもキワメツケの芸者にしか与えられない名跡(みょうせき)である。初代の奴は、論客であった福地桜痴(ふくちおうち)(註2)に愛されたが、結核のために早逝(そうせい)している。名妓(めいぎ)の名はヤスヤスと後継者には継がせないのが花柳界の慣習(しきたり)だった。その名を襲名するに当たっては名跡を恥ずかしめぬ容貌と芸の技量の他に、しかるべき後盾(うしろだて)を必要とした。そのため養母の可免は、贔屓筋(ひいきすじ)の政財界の御歴々(ごれきれき)の中から時の総理伊藤博文を選び出す。
 当時は現代と違い、政財界人の色事に関するゴシップは新聞を賑(にぎわ)す日常茶飯の記事(スクープされるほどの事件ではない)であり、御用新聞ではない赤新聞(註3)の政治批判の好餌(こうじ)ではあったが、それは現在のように秘密を暴露するスキャンダルではなく、週刊誌の芸能記事のように、いたって公然のものであった。わけても当時の伊藤博文は北里柴三郎と並んで、花柳界の漁色家の代表であった。この二人ともに相手の容貌には一切無頓着の質より量の豪傑で、芸者を総揚げしたら、順ぐりにブルドーザーなみの総浚(そうざら)いで、まだ生娘(きむすめ)の半玉(はんぎょく)などは蒲団部屋に隠れなければならないような乱痴気騒ぎの常習犯であったというから、今風に言えば少し困った明るい助平親父(すけべおやじ)であったわけである。むろん、これらの事はとりたてて新聞種にもならないし、伊藤側でも隠そうとしない、誰もが巷(ちまた)の噂で公然と知っている、当時の普通の政治家らしい不行状(ふぎょうじょう)であった。明治という時代は、酒乱のイキオイで理由なしに妻を斬殺してしまった黒田清隆(註4)くらいでないと《事件》にならないような、いたってルーズな時代であったのだ。政治家は政治面は別として私事に関しては、芸能人と同じようにプライバシーの存在しない、毀誉褒貶さまざまな人気稼業であった。
 こうして雛妓であった子奴は水あげ(註5)された伊藤を後盾として奴となり、わがままいっぱいの芳町芸者として育っていく。その自由奔放さは留まる事を知らず、馬車屋から馬を借りて乗り廻す、役者狂いはする(註6)、玉突き・花札賭博(とばく)はアタリマエ。隅田川で女だてらに「水泳ぎ」までする御転婆(おてんば)ぶり。しかも当時は日本製の水着など存在せず、白昼堂々と裸に晒(さらし)を巻いたような姿(なり)で貞奴は平気だが、周囲はあわてざるをえない。伊藤はなかば面白がっていたのだろうが、「下ばきに、長袖つきのワンピースを組み合わせたような、舶来物の水着」を買い与え、欧米渡りのハイカラな避暑法であり健康法として有閑階級で流行のきざしが見えてきた海水浴を貞奴に提案し、別荘のあった大磯の濤竜館に連れて行く事が多くなった。韓国統監を決めるような、国家の一大事の決議の席にも芸者をはべらせるのが当時の通だったようだから、これは批難するほどでもないかも知れないが、大日本帝国憲法草案作成のおり(明治二十年夏)にも、伊藤は神奈川県夏島の別荘に貞奴をともなっている。

註1──売淫を公許された公娼(こうしょう)。無許可のモグリは私娼(ししょう)であり、「娼妓」とも「遊女」とも呼ばない。一般に後者は「売笑婦」と呼ばれた。公娼の廓(くるわ)のある地域を赤線、私娼窟のある地域を青線と呼んだのは、この時代より光年の事である。

註2──本名は源一郎。明治初期から末期にかけての小説家・劇作家・ジャーナリスト。衆院議員など肩書き多数。十五歳より蘭学を学び江戸へ出て英学を修得。幕府に出仕して通訳・翻訳に従事。明治元年佐幕派(さばくは)の新聞『江湖(こうこ)新聞』発刊。新政府から逮捕されて発禁。三年に渋澤栄一の紹介で伊藤博文に会い意気投合。伊藤の渡米に随行。四年の岩倉具視の米欧巡遊にも書記官として参加。七年東京新聞主筆となり自由民権派批判の筆をふるう。御用新聞という悪評の反面、社説は好評。十五年立憲帝政党を組織。以降の政財界活動は省略。二十二年歌舞伎改良を提唱し歌舞伎座を建築し座主となる。九代目団十郎と意気投合し、改良史劇を続々発表。明治三十九年没。

註3──マルクス主義とは直接の関係はない。新聞購読料を低廉(ていれん)にするために、各新聞が競って安価販売合戦を繰り返した結果、だんだん紙質が悪くなり紙面の地色(ぢいろ)が赤かったのが名前の由来。日本の探偵小説の開祖のひとりである黒岩涙香(るいこう)(※)が社主であった萬朝報(まんちょうほう)(ヨロズ重宝のシャレ)などが代表的。通称「マンチョー」の主筆は涙香であったが、涙香の他に多くの論説を執筆したのは幸徳秋水である。
※明治を代表するジャーナリスト。本名は周六。「まむしの周六」と呼ばれるほど、その筆鋒は鋭く、政財界から恐れられた。『噫無情(ああむじょう)』『巌窟王』を代表作として、『死美人』『白髪鬼』『幽霊塔』などの翻案探偵小説、SF小説の魁(さきがけ)である『暗黒星』などの他、『天人論』『小野小町論』など著作多数。都々逸(どどいつ)や連珠(れんじゅ)(五目ならべ)の大衆普及にも貢献した。音二郎の選挙落選を「河原者のぶんざいで‥‥」と涙香がクサしたため、逆上した音二郎がピストルで涙香を暗殺しようとつけ狙った事件もあったが、伊藤博文の金庫番の金子堅太郎男爵(音二郎・貞奴の仲人)の説諭で事なきを得ている。

註4──戊辰・西南戦争の官軍参謀。北海道・樺太の開拓長官を経て、農相・逓相・首相・枢密院議長を歴任。黒田を含めて、井上馨・井上毅・西園寺公望や若き日の牧野伸顕なども貞奴の贔屓客であった。

註5──花柳界の伝統で《処女》を売買する経済制度。買手は多額の水あげ料を支払い、多くの場合、いわゆる芸者の旦那(だんな)になる。

註6──芸者はパトロンの独占ではないから、貞奴の場合も伊藤の体面を損ねないかぎり、かなり寛大に見られた。中村芝翫(しかん)(後の歌右衛門)、尾上栄三郎(後の梅幸)や横綱小錦などと、浮名を流す。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源5

貞奴の御乱交には実のところ理由があった。気位の高いワガママはもとよりだが、少々捨鉢気味に見えるのには、ある経緯(いきさつ)が有ったのだ。
 貞奴がまだ半玉の頃、成田詣での帰途、野犬の群れに襲われ、騎乗した馬から振落とされそうになった事があった。それを救ってくれたのが慶應義塾の学生・岩崎桃介(ももすけ)であった。この桃介に貞奴は商売ぬきでゾッコンになってしまう。ところがこの桃介、貞奴を憎からず思っていた事は確かだが、遊びはともあれ芸者を女房にしようという気はさらさらない。
 埼玉県荒子村で農業と荒物商を営む家に明治元年生まれた桃介は、将来、大実業家になることを夢見ていた。頭脳明晰・容姿端麗・加うるに実用を重んじ、他の塾生を違って常に洋服を着用していた桃介は、当時の最も進歩的で合理的な学生であった。これは師である福沢諭吉の影響もあるのだが、ある面、非情で功利的あることを意味する。桃介の考えからすれば当然に、妻帯するにあたっても、自身の将来的地位をオトシメぬ然るべき処から‥‥という思いがあった。博文をはじめとする明治の元勲(げんくん)の多くのように、芸者を女房にする時代ではないと考えていた。幸いというべきか、桃介の策謀も有ったのだか、塾長の諭吉の娘ふさ子が桃介に夢中になった。そして暫くジラした後で桃介は、当然のように養子縁組をし、結婚を前提として諭吉を後盾にアメリカ留学をしてしまう。
 渡米した桃介は福沢家の財産を浪費して、女性関係も華やかに遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)。その噂も諭吉の耳に入るが、御乱交を隠そうとしない婿養子の度胸に、かえって新時代人の頼もしさを感じたのが実情のようだ。門閥(もんばつ)を持たないがための功利的な理由で福沢桃介になったにしても、その功利主義は諭吉直伝のものであった。一般の父親のように娘への溺愛から状況判断を誤る諭吉ではなかった。また桃介も、遊びは派手であったが福沢家の体面を損なうような男ではなく、万事落度(そつ)無く熟(こな)した。帰国後は諭吉の紹介で北海道炭礦鉄道会社に就職。結婚したふさ子を伴って札幌に就任。その後の桃介は結核などによる人生の浮沈さまざまあれど、さすがに諭吉が見込んだ男だけあって、自力で結核すらも克服。知力と胆力をモトデに明治の戦勝景気の波に乗り、日本屈指の相場師に成り上がる。王子製紙の重役をはじめ数々の要職についたが、特に電力界の雄として斯界(しかい)に君臨する大実業家になった。ついでながら、その膨大な事業のホンの一端が帝国劇場の経営であり、帝劇会長であった事もあった。
 話をもとに戻そう。桃介に袖にされた貞奴は役者狂いも激しくなるばかり。パトロンの博文にしても、貞奴が〈浮気〉の間は大目に見ても居られるのだが、桃介の場合は〈本気〉であり、しかも貞奴が蔑(ないがし)ろにされたこともあっては、後盾としての沽券(こけん)にかかわる事であった。しかも相手は社会的地位もない二十(はたち)にも満たない学生であり、断りの理由が、芸者を妻には出来ぬ──とあっては、芸者を妻にしている博文にとって面白くある筈もなかった。  また私見ではあるが、明治十四年の国会開設に関する政変以降には博文と袂(たもと)を分かった大隈重信一派の参謀と目されたために、博文が政府新聞を、当初予定だった諭吉に任せなかった事情から考えても、桃介に対する博文の思いには、義父である諭吉の裏切りに対する反感も二重になっていたと考えられる。また、かなり込み入った話だが、この政変時に博文一派であった福地桜痴が自由民権派に担ぎ上げられて、民権派の旗手にされてされてしまい、中途で人気絶頂にもかかわらず博文の意向から慌てて矛(ほこ)を納め、もとより反意は無かったために博文の同調者(シンパ)に舞戻る経緯があるのだが、この桜痴の諭吉に対するライバル意識が、少なからず貞奴の一件に関しても影響を与えていると私には考えられる。  貞奴が音二郎と出会ったのは『明治を駆けぬけた女たち』(中村彰彦編著)によれば、失恋の痛手から芝居通いが始まり、貞奴が音二郎を見染めた事になっている。また杉本苑子の小説『マダム貞奴』では、大川で水泳中に溺れかかった貞奴を音二郎が救い出す、きわめて魅力的なトップシーンから幕を開ける。しかし杉本苑子・渡辺淳一対談によれば、この場面は創作であるという。つまり『旅芸人始末書』をはじめ類書にあたっても、二人の初対面が何時何処(いつどこ)であったか記されていないのである。

 ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。

 私の憶測によれば、貞奴を中に挟んだ桃介と音二郎の一件は、政党以来対立する伊藤を大隈、幕末以来ライバル関係にある福地と福沢の、プライドを懸けた代理戦争であったと思われる。文久元年(一八六一年)遣欧使節で同行以来、福地源一郎(桜痴)と福沢諭吉の二人は翻記官や通訳官として、明治五年頃までに洋行三四回の日本屈指の西洋通であった。その先鞭は万延元年(一八六○年)の威臨丸で渡米の諭吉が一年はやいが、回数なら桜痴が勝る。共に幕臣であり、階級としては七歳下の桜痴の方が上であった。明治十一年に桜痴東京府会議長時代、副議長を辞退したのは諭吉である。しかも諭吉の自伝や著作には、接触の多かったはずの桜痴の名が、タダの一度も登場しない。明らかに眼の上のコブであったのだ。洋行以来の芝居通であった桜痴が演劇改良会を起こすのが明治十九年。諭吉年譜には二十年の項目に、〈新富座で初の芝居見物〉──とあるのは、ただの偶然とは思えない。明治二十二年桜痴は歌舞伎座創設。対するに諭吉の養子桃介は、後年帝劇会長に納まっている。桜痴・諭吉ともに没後であるが、欧化主義者で脱亜論者の諭吉の面目を、実業家の養子である桃介は、こうした形で果たしたのである。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源6

芝居通いをするうちに、いつしか音二郎一座の楽屋にも出入りするようになった貞奴は、ある夜音二郎をともなって向島にある大倉喜八郎の別邸に行き、三日間籠(こも)って相互の気持を確認。以下、中村彰彦の著作に従えば、「奴は養母・可免に音二郎と結婚する、と告げた。可免は伊藤の承諾を得た上で、その秘書官・金子堅太郎に晩酌の労を取ってもらった」──という。場所まで明確だから会合の一件は確かだろうが、それ以前に貞奴が楽屋に出入りするほど音二郎と親しかったかどうかは、いずれの評伝においえも推測の域を出ないと私は考えている。
 大倉喜八郎は財閥解体までの日本屈指の政商で、後の帝劇創設時の役員でもある。その息子の喜七郎(七に傍点)が日本オペラ界のパトロンになるのは、もう少し後の事。いずれにせよ大倉の別邸は、一般人が通常に軽々しく利用できる所ではない。伊藤博文その他の政治家が、しばしば密談に利用していたような場所である。音二郎と夫婦になる事は、貞奴ひとりの対面を繕(つくろ)う私事というより、博文を巻込み、特に勝気な可免のプライドをかけた、桃介へのシッペ返しであったと考える方が、より正確であろう。この頃の桃介は福沢の後盾がありながらも、まだ頭角をあらわす以前の青二才にすぎない。芸人といえども音二郎は、東京きっての人気者に成っていた。おそらく、音二郎が古くからの(古く~ 傍点)馴染であった──という《物語》を捏造しないかぎり、貞奴はもとより、芳町の置屋の女将としての可免の対面は保てなかったのではないかと、私は考える。そうでなければ会合に、なぜ三日も手間取るのかわからないのである。
 以降は音二郎の死に到るまで、桃介の運が向いてくると音二郎が零落し、音二郎が隆盛を極めると桃介の結核が再発する……といった、シーソーゲームのような関係を維持していく。勝気で気位の高い貞奴にしてみれば、心中深くに桃介への未練があるだけに、桃介への対抗意識が後々まで残されるが、音二郎の方のライバル意識は希薄で、人間万事塞翁(さいおう)が馬と慌てず騒がず鷹揚(おうよう)に過ごしている。それがイザ窮地におちいると、無類の勘の良さで方向転換し、明治の荒波を乗越えていく。
 川上音二郎は明治元年(一八六四)に博多で生まれた。十三才で出郷後、寺の小僧、慶應義塾の学僕、裁判所給仕、洋傘直し、巡査などの職を転々として、明治十六年頃に帝政党員となる。ところが政談演説で官憲を謗(そし)ったため入獄。その間に帝政党は解散。出獄した音二郎は、あらためて自由党に入党し、滑稽政談を得意とする「演舌つかい」として自由童子を名乗る。またも懲りずに壇上から「官史」を「官ちゃん」呼ばわりする等、官吏侮辱罪その他で検挙される事百七十数回。実刑二十数回におよび、あらゆる政治活動を禁じられてしまう。明治十九年に大阪の監獄を出た時には、桜井典獄の説諭に従い、丸坊主になり自由童子の名を捨てている。当時の人気がどれほどであったかは、後に、浪速小僧・明治浪人自由童子・国洗坊自由童子・自由浪人・自由狂子などの亜流を多数生み出した事からも想像できよう。
 さて、これからだ。政治活動を禁じられた音二郎は、一般的に蔑(さげす)まれていた芸人の世界に身を投じ、芸能をカクレミノにして世相の憂さを晴らそうとする。明治二十年京都阪井座で歌舞伎役者の中村駒之介座に加入し『東洋のロビンソン 南洋嫁ケ島』を上演。詳細は不明だが、「川上しきりに弁じ」たらしいから、かなりアジ・プロ色の強い芝居(あるいは政談?)であったろう。これが音二郎の芸人としての初舞台である。つづいて神戸の戎(えびす)座で『改良演劇西洋美談 斎武義士自由の旗揚』を上演し、大当たりをとる。音二郎は政談演説のときと同じく、収益のすべてを白米にかえ、京都でも大阪でも生活に苦しむ人々に分け与えた。この後、明治二十二年には岡山市の常盤座で、朝鮮の改革を図ろうとした大井憲太郎らの大阪事件に取材した『美人一滴の血涙』を上演し、その事件に連座した福田英子の自伝『妾(わらわ)の半生涯』によれば、「此芝居見ざれば、人に非ずとまで思はしめ、場内毎日立錐の余地なき盛況」という有様(註1)。

 ところで、ここからは私の推論だが、二人を結びつけたのは福地桜痴ではないかという説である。桜痴は初代奴の贔屓(ひいき)はもとより、没後に『花柳史上の桜痴居士』という本が出版されるほどの男である。当然、貞奴が芸者時代にも面識があったと考えられる。しかも音二郎は壮士芝居以前の政談演説の弁士時代(明治十六年)には、桜痴などが結成した帝政党の一員だった。帝政党は翌年に解散し、音二郎は自由党に入党し自由童子を名乗るのだが、それからが二転三転。明治二十三年に一座を率いて東京での初公演。人気急上昇で、〈俳優志願者続出に川上音二郎参る〉──という記事が『東京日日新聞』に出たのは二十四年八月。この新聞社は二十一年まで桜痴が社長だから、まんざら無縁とも言えまい。

 さて、音二郎と言えば『オッペケペ』だが、これが登場するのは明治二十二年の京都であるらしい。一種の時局風刺の替歌で、明治二十四年から日清戦争にかけて新作も数多く、後年の東京公演でも大評判であった。他の替歌と区別されて、特別に『川上節』とも呼ばれた『オッペケペ』は、単独での上演は無く、かならず人情噺や演劇のあとに付け加えられたもので、観客をリラックスさせ、芝居や噺の印象を際立たせるための、いわばオマケであった。そのオマケの方で名声を博するあたりが芸能の面白いトコロである。

 この頃の音二郎は、人気は鰻登りながらも、いまひとつ腰が座らない。政談・講談・落語・にわか・歌舞伎(註2)の間を転々としている。京都・新京極の笑福亭を本拠に浮世亭○○(まるまる)を名乗り、明治二十三年『時世情談』として『自由艶舌鯉之活作(てまえりょうりこいのいきづくり)』を上演。当時の実在の壮士を主人公に、市民社会の規範や明治青年の心意気を折込み、民主主義の根本理念を語った《話芸》のようである。これが当りに当った。京都市民を沸かせて昼夜の満席状態。席亭は黒字を一万何千円もモウケたというから尋常ではない。現在の一億円以上に相当するであろう。大不況の最中「夷谷(えびすや)座女芝居(註3)と笑福亭川上音二郎一座の落語」だけが大入り(『日出新聞』明治二十三年五月十七日)となり、京都芸人の頂点に音二郎は立った。

 次に目指すは関東制覇である。

註1──彼女自身の批評としては、「一見の値ひなきもの」──と記している。

註2──いまだ新劇としても形にならない状態のものだったため、仮に旧劇の歌舞伎に分類しておく。

註3──年代を見てわかるとおり、ほとんどの演劇史で、この時代には女優が居ない事になっている。すべて女形が演じていたというマコトシヤカな説が常識になっている。ところが大衆に愛されて女芝居つまり女歌舞伎が、大威張りで大衆芸能の王座に君臨していたのである。同時代では西洋魔術のみが女歌舞伎と張合った位であるという。ちなみに再説すれば、貞奴の日本での初舞台はこれより十三年後の明治三十六年である。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源7

~権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
 堅い上下(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車、いきな束髪ボンネット。貴女(きじょ)に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポーポー。
 米価騰貴の今日に、細民困窮見返らず、目深(まぶか)にかぶった高帽子、金の指輪に金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には米を蔵に積み、同胞兄妹見殺しか、幾ら慈悲なき欲心を、余り非道な薄情な、但し冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使こうて極楽へ、行けるかい、行けないよ。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。
 ままになるなら自由の水で国の汚れを落したい。オッペケペ、オッペケ。(中略)
 
 散切(ざんぎり)頭に白鉢巻、陣羽織を着て日の丸を片手に、軽快な七五調でリズミカルに弁じたてるのが『オッペケペ』(『オッペケペ節』とも呼ばれた)である。まずはスタンダードを記したが、時局に合わせて作詞が変わるのはモチロン、おそらくその場の状況で、かなりのアドリブも有ったと考えられる。風刺や煽動にとどまらず、ヒョイと観客に突込みを入れるあたりが音二郎の芸人らしさで、話芸ではないが役者が芝居の中で観客にイキナリ語りかける手口は、歌舞伎の口上にも通じる常套手段であった。(註1)

 このオノマトペともつかぬ『オッペケペ』には、実は前史があり、笑福亭時代には「ヘラヘラ、ハラハラ」という合の手を、音二郎は巧みに使って大受けしたらしい。当時の芸人のヘラヘラ坊万橘の囃(はやし)言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラへ、オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」──を単純化し、言わば盗作したものだが、当時は著作権というものは存在しなかった。「鼻下長のお利口連は勿論、丁稚に下婢に番頭に旦那に奥さんに僧侶神主まで、ヘラヘラハラハラといいだす様になって、大流行」(『日出新聞』明治十九年四月十六日)──で、それに改作を加え出来たのが『オッペケペ』らしい。

 こうした時局風刺の話芸は、元禄期前後(十七世紀末)に心中ものの芝居が流行し、それをもとにした絵草紙を売るのに、筋書きを謡や小唄に節をつけて売り歩いたのや、それと同時期に、世間の出来事などを報じた絵入りの『瓦版』(註2)の売り子が、事件のサワリを唄のように節を付けて売歩き『読売』を呼ばれたのを起源する。香具師(やし)の売り口上などもその発展形態だが、『オッペケペ』以降の、壮士くずれが流行歌の歌詞やアジ・プロ的創作歌曲の歌詞を口演しながら売歩いたのも、その系譜に連なるものである。大正期の演歌師・添田唖蝉坊(あぜんぼう)の『ラッパ節』『ノンキ節』などが、その流れと言ってよい。発達史としては『瓦版』以前からある説教師の説教話芸や、特にそれが通俗化した阿呆陀羅経を唱える願人(がんじん)坊主の祭文(さいもん)・ちょんがれ・浪花節などが混入して展開されたものと考えられ、いずれも芸能と商売と政治宗教思想宣伝(プロパガンダ)が混在した、ジャンルとして規定できない行為をともなった話芸(パフォーマンス)であった。

 さて、音二郎一座の関東初見参は、明治二十三年八月横浜蔦座公演『明治二十三年国事犯顛末』と『松田道之名誉裁判』の二本立て。もちろん『オッペケペ』も演じて十五日間満員。『国民新聞』『東京日々』『東京朝日』などが、「書生芝居(註3)・滑稽演劇家川上音二郎大人気」──と、盛況ぶりを報じている。そこを振出しに九月は東京・芝の開盛座・「書生芝居、太鼓を叩きまわる、一行凡そ三十二、三人」(「国民新聞」九月十二日)「芝開盛座、再び停止を喰わば荒事の活劇を覚悟」(同九月二十三日)──と、新聞が過激な記事を掲載。少し注釈を加えれば、前の記事は、公演に際してデモンストレーションとして行った仮装(コス・プレ)によるパレードを報じたもの。当時は相撲巡業の他は《触(ふ)れ太鼓》による到来を告げる公演がなかったため、芝の住民は時ならぬ太鼓の音に、イッセイに大通りに飛び出したらしい。「川上音二郎一座」や「開盛座」などの幟旗(のぼりばた)を押し立て、人力車三十数台に壮士風の一団を連ね、役者名の小旗のはためく中、音二郎は白の毛皮を座席に敷いて、紺のカスリに鳥打帽のイデタチで、自信満々の様子であったという。後の記事は、警視庁の脚本検閲でひともめ有った一件を報じたもの。たとえ《芸能》に名を借りても、政治的主張への官憲の追求はキビしかったのである。

 この開盛座でも十日間の大入りを記録。イキオイをかりて浅草文楽座での演説会も立錐の余地が無い有様。徳富蘇峰(そほう)の『国民の友』は、「演説壇上、滑稽を弄して笑を博し、竹刀を振りて興を添ゆ、講釈師? 演説家? 忽ちにして俳優、忽ちにして鳴物入りの演説家、知らず俳優? 演説家?」──と、驚きの色を隠せない。型破りの新人種(パフォーマー)の出現に、それを発火源として壮士の芸人化がワレモワレモと始まった。壮士伊藤仁太郎転じて政治講談師・伊藤痴遊(ちゆう)などがこうして生まれて来る。四年前のナニワの自由童子の復活である。サア、これからだ。

 
 註1──メイエルホリドなどの二十世紀初頭の前衛劇が、おそらく書物からの知識によって、日本の歌舞伎や雑芸から採り入れたのは、西洋演劇の発想にはない、舞台から垂直に伸びた花道や客席からのカケ声などの、演者と観客の壁を取払う、こうした方法論であった。郡司正勝が『演劇の様式』(昭和二六)の中で言うように、西洋の「頭脳の演劇」と違って日本の歌舞伎は「感覚の演劇」であり、漱石の歌舞伎観(※)を踏まえ、新劇の立場からすれば「きわめて低級な芝居というほかない」──としながらも、その伝統的な手法にある、西洋演劇の発想を越えた歌舞伎の、むしろ古めかしさの中に混在する前衛性を主張するのは、こうした点からであろう。
※──「極めて低級に属する頭脳を有った人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応えるために作ったもの。」

註2──粘土板やツゲの版木、あるいは餅やコンニャクなどに文字を彫り、墨を塗って印刷した新聞や宣伝ビラの原型。語源は素焼き粘土板のカワラからという説と、四条河原での芝居を知らせる摺り物に、こうしたものが多かったからという説。また売り歩く多くの者が、役者等の《河原者》であったからという説などがある。

註3──いまだ新劇が成立していない時期のため、書生あがり・壮士くずれが演じる素人芝居を書生芝居・壮士芝居と呼んだ。自称・他称の場合がそれぞれにあるが、画然とした相違が有るわけではなく、新聞表記などでも同じ公演に二つの名称が各誌バラバラの無手勝流で記されることが多い。一般的には両者を壮士芝居と総称する。評伝『女優貞奴』の著者・山口玲子は、音二郎が《自称》したとしているが、根拠とするデータが新聞記事だけのため確証とは言えない。ただし書生あがりの壮士くずれである音二郎の自称とすれば、旧時代人の「くずれ」より新時代人の「あがり」の好印象の方を、ネーミングとして採用したことであろう事は確かである。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源8

壮士芝居の歴史は明治二十一年十二月角藤定憲(すどうさだのり)が、中江兆民などを顧問とし《日本改良演劇》と銘打って旗揚げしたのが最初とされている。劇団名も《大日本芸劇矯風会》と大変イカメしい。演目は『耐忍之書生貞操の佳人』『勤王美談上野曙』の二作品。翌年の京都公演の頃にはユニフォームも揃いの黒紋附に白縮緬の兵児帯、白布のうしろ鉢巻という壮士風のスタイルに定着する。以来角藤は《新演劇元祖》や《元祖大日本壮士改良演劇会》を名乗りつづける。
 ズブの素人が演じる芝居だから、かねて角藤が写実の巧者と私淑する中村宗十郎に演技の教えを乞うたが、「堅気の人間は毛をたてて恐がって居る転(ごろ)つき壮士だから」と最初は断られる。しかし弟子の中村丸昇が演技指導を代行する事になった。明治の市井の出来事をリアルに活写するのが角藤の意図だったから、車夫役は三日も市中で俥(くるま)を引廻し、按摩役・乞食役それぞれ実地体験していく演技収得法であったらしい。官憲の圧迫を逃れ芝居に仕組んだ政治宣伝を意図とし、いっぽうで無職の青年壮士に職を与え救済するという涙ぐましい目的もあった。ところが関西ではかなりの成功を収めた角藤の壮士芝居も、関東での公演まぎわに政治的圧力でお流れになり、初東上の二十七年には、すでに音二郎一座が地盤を固め、それを追い抜く力を持たなくなっていた。そうした角藤を音二郎はツブサに観察し、観客の反応を研究して来た筈である。
 私見によれば角藤の関西での成功は、土佐を中心とする自由民権思想の普及が関西以西では根強かった事、演技の未熟さにくらべリアルな生真面目さが好意的(場合によっては滑稽)に受けとめられた事があげられると思う。それがすぐさま関東で受け入れられなかったのは、地元贔屓(びいき)が得られない事と、自由民権思想の普及力の違い。壮士劇の未熟なギコチ無さが洗練を要求する東京の排他的な庶民文化の中でヤボったく見えた事。壮士劇の強面(こわもて)な体質が女性客を集めなかった事。そして最大の原因は、演技力とは別に要求される、或時(あるとき)は高圧的に或時は謙(へりくだ)る芸能的センスと、バラエティーに富んだエンターティメント性の欠如であったと思われる。
 角藤の持ちえなかったそうした技量を、音二郎は確かに持っていた。明治二十四年、音二郎は浅草の大劇場中村座で『板垣君遭難実記』を上演する。当然オッペケペも唄い、清元もうなり、大切りでは役者連総出のステテコ踊りの賑やかさ。観客に芸者衆なども交えて、東京中の話題となるほどの大盛況。演目は中幕に『監獄写真鏡』をはさんで二番狂言『勧懲美談児手柏(かんちょうびだんこのでかしわ』大切り『花柳噂存廃(はなやなぎうわさのあるなし』で全幕。歌舞伎と同じ配列だがすべて新狂言である。「さあさあ、板垣君遭難実記、岐阜中教院玄関の場がはじまるよッ、板垣退助に扮するは、いま売り出しの青柳捨三郎、刺客相原が川上音二郎ッ、板垣死すとも自由は死せず、手に汗にぎる殺し場だあ、さあ幕があくよッ、はいったはいったァ」—-呼び込みの声に従って、当時の中村座を覗いてみよう。引用は杉本苑子の『マダム貞奴』から、改行無しの大車輪(はやおくり)。
 
 川上扮するところの刺客相原は、おどりかかって板垣を刺す。ここで例の、/「板垣死すとも自由は死せず」/をやるのかと思うと、そうではない。組んでは倒れ、起きあがってはまた組みつき、五度も六度も格闘をくり返すあいまあいまに、自由民権思想について両人が、泡をとばして論じ合うのである。(中略)相原が板垣の髪の毛をひっつかむ、それを下から板垣が二間も先へはねとばす。ドシーンと舞台の板が鳴る。様式化した歌舞伎の立ち廻りにくらべると写実そのものだ。(中略)—-ところへ珍事が突発した。板垣が、/「ろうぜき者ッ、出あえ」と声をあげるのを聞いて、中教院の中からばらばら人がとび出し、相原と大乱闘のさなか、巡査二人をしたがえて警部が花道を駆け出してきたのだ。そのまたあとを、中村座の頭取があわてふためいて追ってくる‥‥。(中略)平土間の見物は床板をふみ鳴らし、/「官憲横暴ッ」/と絶叫しながら、花道めがけて殺到しようとした。/舞台番が、泡をくってとび出してきた。/「頭取さん、ちがうよッ、ちがう。そのお巡りは役者だ。狂言だよッ」

 杉山誠の論文(註1)では開場初日のハプニングらしいが、杉本の小説では頭取と舞台番まで含めた全員がグルの《演出》になっている。あるいは初日の客の反応から、音二郎によって新しく書き加えられた趣向かも知れない。他にも『マダム貞奴』には役者の扮した巡査が、刺客相原の公判場面で平土間の観客(実はサクラ)に、「こらッ、公判傍聴中に、帽子をかぶるちゅうことがあるのかッ」—-と叱り、「へい、ごめんなさい」—–と帽子を脱いで、場内の割れんばかりの拍手喝采もあったらしいから、これを杉本の創作でないとすれば、こうした演出は意外さをねらった物ではあっても、日本の芸能では前衛的というより従来よりの常套手段であった気配が読みとられる。前出の杉山論文『新派劇』には、「頭の床を打つ音、ドンゴツンと遠き桟敷にまで聞ゆる程(中略)実地活歴もここまで遣って見せて貰えば見物も確かに合点するなり」—-という、出典記載の無い文章があり、おそらく生傷の耐えないリアルな舞台であった事が想像される。そうした雰囲気をデータの集積の上に空想を交えて、場合によっては事実以上に本当らしく杉本の『マダム貞奴』は伝えている。それが大変に面白い。

 いずれにせよ音二郎の成功によって、演劇といえば歌舞伎に限られ、役者の一族が特別のコネでも無ければ役者になれないと考えられて来たのが一変し、素人でも役者になれる時代が到来した。数多くの俳優志願者が音二郎の下に集まって来る。その中には後の新派の名優になる伊井蓉峰も居た。

註1──『演劇の様式』昭和二十六年河出書房刊所収『新派劇』

村上裕徳 日本現代舞踊の起源9

壮士芝居について、もう少し触れておこう。
 その開祖である角藤(すどう)定憲は慶応三年(一八六四年)岡山県で生まれた。元冶元年生まれの音二郎より三才若い。京都府巡査の後、中江兆民の演説に感動し、大阪で兆民が社主の≪東雲(しののめ)新聞≫の記者となった。その角藤に兆民が、寺の境内で政談演説するより舞台上の方が効果的と、思想性を盛り込んだ演説活動をすすめ、これが壮士芝居の先駆けとなった。兆民は反政府的言動から、尾崎行雄や星亨(とおる)とともに明治二十年の保安条例で東京四里以内退去を命じられていた。そのために官憲の眼をかいくぐって関東にまで波及するほどの強力なアジテーターを必要としていたのである。角藤は女形と立役の両方をこなし、女形姿も美しかったらしい《註1》が、そこは素人の悲しさ。裾さばきが上手く出来ず、裾を踏んでひっくり返る事もしばしば。毛脛(ずね)を曝(さら)してバタつくので桟敷の客はドッと笑うが、芝居は滅茶苦茶。パッと裾をまくって、これを愛敬と居直ってしまい、楽屋に引込むのが、まだ素人芝居だからと許された壮士芝居の黎明期であった。角藤は何事にも大雑把で無頓着だが打算的でないサッパリした気性であったらしく、それが角藤の人望にもつながっていた。この角藤一座も名古屋公演で官憲とぶつかり、関東上陸を阻(はば)まれて関西各地で低迷状態であったが、音二郎の関東での人気に刺激され、浪花座で息を吹きかえす。川上音二郎何するものぞ、角藤定憲は壮士劇元祖である――というのが彼の自負(プライド)であった。
 もうひとり特筆すべきは、二十五年七月に浅草市村座で『明治裁判弁護誉』を上演した山口定雄である。四国の徳島市かごや町の小間物屋出身の山口は、大阪へ丁稚奉公の後に歌舞伎界に入り、十一代片岡仁左衛門≪当時我当(がとう)≫の弟子として我若(がじゃく)を名乗る元女形であった。門閥が無ければ出世できない歌舞伎界を逃れて壮士芝居に転じたものである。それだけに基礎も確かで、立役、女形、かたき役、老役(ふけやく)と何でも達者にこなした。泥酔を装い交番の前で立小便をして巡査と大ゲンカを始め、ヤジ馬が集まった頃合を見計らって、「諸君、我が山口演劇は民衆教化の運動を目的とした芝居で、即ち営利のみを考えていない」――と一席ぶつような、奇抜な前宣伝を常套としたらしい。また歌舞伎界出身だけに現代劇に限らず歌舞伎も上演したが、『伽藍先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の愁嘆場(しゅうたんば)で観客は涙をしぼっている最中(さなか)、劇中の息子千松(せんまつ)を死なせてしまい悲しむ母の政岡(まさおか)がイキナリ、「諸君よ、即ち諸君よ。わが山口演劇は」――と芝居をそっちのけにしてしまう珍妙な演説癖が有ったらしい。ほかにも豆電球がカラダに巻いて宙乗りするような外連(けれん)《註2》を得意とし、「ハア、パッパッ」の合図の声で光を点滅させながら空中を闊歩(かっぽ)して消えていたらしいから何とも愉快である。もっとも電気の導線の不首尾から感電して肉まで焼く生傷が絶えない、かなり危険な荒事(あらごと)でもあった。
 現在では猿之助の専売のようになった宙乗りも、当時の小芝居(こしばい)ではかなりポピュラーな演出である。大歌舞伎(おおかぶき)でも品の良いものとして評価はされていなかったが五代目菊五郎も宙乗りをしたし、上方歌舞伎《註3》の市川右団次(うだんじ)や父の斎入が最も得意としたのも宙返りや早替りであった。こうした外連は幕末以前からのものだが、歌舞伎を伝統技能として≪高級に≫認知させていくなかで、宙乗りは明治以降じょじょに下手(げこ)な演出として大歌舞伎では敬遠されて来た。猿しかやらぬサーカス歌舞伎と陰口を囁(ささや)かれもしてきた。しかし宙乗りに代表される外連は、それが本質でないにしても、歌舞伎が歌舞伎本来の活力を持った猥雑で如何(いかがわ)しいものであるための重大な要素であった。明治以来、猥雑であるからこそ歌舞伎であったパワフルな芸能が洗練された芸術を目差したのである。
 話をもとに戻すと、以上の角藤に山口と音二郎を加えた三人が壮士芝居三羽鴉である。ほとんどの新生劇団は、歌舞伎からの派生をのぞき、この三劇団から分化して生まれてくる。他にも後の≪新派≫の原形のようなものが出来つつあった。二十四年に漢学者で劇作家の依田学海(よだがっかい)の提唱で改良演劇の実践として男女合同による劇団≪済美館≫を結成する。後に音二郎門下にもなる伊井蓉峰はこの劇団が初舞台であった。女優は千歳米坡(ちとせよねは)≪芳町(よしちょう)の芸者米八≫が務めたが、こうした男女混合の≪実験演劇≫は、いまだ時機尚早で、二、三回の公演のみで自然解散し、そこに出演していた伊井や水野好美は川上一座に合流する。

 いっぽう『板垣君遭難実記』を音二郎の煽(おだ)てに乗って中村座へプロデュースした浅草の芝居茶屋≪丸鉄≫の息子福井茂兵衛が、あそらく借金を棒引きにさせるための音二郎の煽てに乗せられ、生来の芝居好きもあって川上一座に参加。後、貸した大金を音二郎が返済しなかったため音二郎から離れ一座を結成。四番目の旗頭になる。福井は万延元年(一八六〇年)生まれで音二郎より四才上。十二、三才で落語家の弟子となり、五明楼玉若を名乗って十六才で真打ち。ひっぱりだこのかけもちで忙しく、人力車で走りまわっていたのを人力車ごとひっくり返され、片足を骨折。後遺症で正座が出来ず引退。≪自由新聞≫の記者となり星亨の知遇を得る。横浜で星の秘密通信員になった後に壮士集団≪住民苦楽部≫を組織して政治活動に活躍。後に役者に転じた。足の不自由なのは桟敷からでもわかるのだが、粋な所作や敏捷さがそれをカバーし、歯切れの良い口跡(こうせき)が観客を魅了するほど粒立ちの良い発声であったらしい。元壮士ながら壮士ぶりを売り物にせず、渋い芸風で面白い芝居をする事が好まれ、初期新派の名優となる。

 また伊井や水野も佐藤歳三と川上一座を離脱し≪伊佐水(いさみ)演劇≫を結成。後に分かれ三者三様に活躍。水野は劇団≪奨励会≫を名乗り浅草常盤座を本拠に三十年代に全盛を迎える。一座の女形は山口門下出身の河合武雄であった。河合は歌舞伎役者大谷馬十の息子である。伊井の親しい後輩に山口門下の喜多村緑郎(ろくろう)がおり、伊井・喜多村に河合を加えた三人が、現在≪新派≫と言われているものの原形を作っていく。いずれも女形を得意とする名優で、後に喜多村門下から花柳章太郎が生まれて来る。

 
註1──容貌魁偉(かいい)であったという異説もある。『浅草喜劇事始』≪丸川賀世子≫では角藤の容貌は次のように記される。「眼と眉のせまった彼の顔は、見るからに利かん気な志士風だが、色白のふっくらした頬のあたりには、若衆の色気が漂っていた。」

註2──江戸時代からある宙乗りや早替りなどの、客を驚かせる派手な演出。宙乗りは縦移動の宙吊りではなく横移動も含み、空中を歩いたり浮遊したりする状態をロープやピアノ線で吊って表現するもの。

註3──東京の荒事を芸風とする江戸歌舞伎に対して関西の和事を芸風とする歌舞伎。片岡仁左衛門・中村鴈二郎(がんじろう)・市村右団次・中村梅玉(ばいぎょく)・中村福助などが大名跡(だいみょうせき)。中村福助は江戸と上方に東西二人居た。上方の福助が梅玉を襲名するのは通例だが、江戸歌舞伎の福助が梅玉になる事はありえない。あるとするなら簒奪(さんだつ)以外の何物でもない。右団次は仁左衛門の名相方で屋号は高島屋。父の斎入は気むずかしやで名高い先々代仁左衛門も、一目置くほどの名優であったらしい。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源10

音二郎の悪戦苦闘のこの時代が、前にも記したように貞奴が博文の愛妾時代である。博文は明治十八年に初代首相に就任。同年の《今日新聞》が公募した人気投票『現今日本十傑』で一位が諭吉、二位が桜痴、三位が博文の、人気も上(のぼ)り調子の時期である。貞奴は十九年の一五才の時に十八才の桃介に袖にされ、二十年に囲い者としてでなく現役芸者のまま博文の愛人となった。博文は四十六才、鹿鳴館(明治十六年落成)のトップ・スターだった夫人の梅子は三十九才。長女の生子が十八才で、貞奴の方が娘より若かった。
 博文は施した貞奴の経済面での待遇は不明だが、後に愛妾となった貞奴より七才若い大阪北の新地の芸者小吉について。高群逸枝の『女性の歴史』は、月手当が三百円で二年間の寵愛を受け、夫人梅子にも可愛がられ、私邸出入も自由であったと伝えている。梅子は元芸者だけに、非常にサバけた面倒見の良い賢夫人であったらしい。おそらく貞奴も同様の待遇であったと想像される。ちなみに明治二十四年の官報に従えば首相の年俸九千六百円、各省大臣六千円、枢密院議長五千円、次官四千円であるから、次官なみの収入が保証されていた事になる。当時の独身官吏が二十円位の月給であり、現在の通貨価値で一万倍前後と想像される。単純計算だと博文の収入の半分近くを貞奴が貰っていた事になるが、当然政治家の収入は年俸のみではない。つまり政治的裏金が莫大に有った。貞奴にしても芸者を続けているから、その上に芸者の花代が加算される。
 当時の芸者の等級は新橋が一等で花代一円。貞奴等の芳町芸者は、日本橋・新富町・数寄屋橋と並んで二等の八十銭から三等の五十銭。烏森・吉原が三等で五十銭。深川・神楽坂が四等の三十銭。赤坂が五等であったという。雛妓(おしゃく)はその各半分の料金であった。誤解されるとイケナイので断っておくと、これは《売春》のための料金ではない。揚屋(あげや)や芝居茶屋等の宴席に置屋から芸者を呼んだりした場合の、一定時間の基本料金である。一日何席かの掛持のうえ、当然気前のよい御祝儀もあり、そこから芸者置屋への紹介料を差引いても、かなりの収入(みいり)だったと思われる。演劇界は昭和二十二年四月号の安部豊の一文によれば、貞奴の一日に稼ぎは御祝儀を含めて二円四、五十銭だったという。おそらく日に二、三席をこなしていたのであろう。
 当時の一般庶民は事業主でないかぎり高額所得者であっても、紳士録に載せて参政権を得たいと思う者以外は税を納めていなかった。そのため宵越しの金は持たない江戸っ子気質(かたぎ)の芸人や芸者などは、有れば有るだけ湯水のごとくその収入を使っていた。堅気(かたぎ)と違って金銭感覚が麻痺しているために《氷(アイス)》と呼ばれた高利貸しの好餌(カモ)にされる場合もあったが、売れっ子芸者のあるかぎり、身を持崩す事も無かったらしい。貞奴も御多分に漏れず、小奴時代の御転婆(おてんば)に拍車がかかり柔道・玉突き・花札・コップ酒と、とどまるところを知らない。ただし貞奴には一途な面があって、乗馬や水泳にしても熱中するだけでなく、自分の技術としてキッチリ修得する手堅さが有った。いわゆる三日ボウズではない。馬術の腕前は、十メートルの白布を地面に着かないように靡(なび)かせ走る古風な馬術《母衣引(ぼろびき)》・競技会に出場するほどの技量であった。水練(すいれん)も得意で、海水浴も富岡海岸で博文と井上毅(こわし)が手をとって教えたという。幕末期に白刃(はくじん)をくぐって来た刀傷だらけの無骨な裸の男二人にはさまれて、バチャバチャやっている十六才の貞奴を想像すると、ほほえましい気がしないでもない。大磯の旅館涛龍館(とうりゅうかん)の浴室で、当時まだ珍しかった石鹸をふんだんに使い、あたりかまわず泡だらけにして、他の泊まり客から羨望含みの顰蹙(ひんしゅく)を買う傍若無人ぶりも、貞奴の無邪気から来る子供らしさと言えるであろう。
 十代頃の貞奴について明治四十四年十一月十四日の《国民新聞》は、「鼻筋の通った顔立ち、やや赤みを持った髪の毛、腰下の長い体格、男のする様な荒っぽいことを好む性質、誰いうとなく、混血児(あいのこ)だという噂がパッと立って、変り者の奴の評判がねんねん愈々高く、お歴々の座敷数が増えだした。我儘が却って面白いとあって人気が高まる」──と記している。貞奴の子供じみたワガママを通せば通すほど人気が出るという《花柳界》とは不思議な世界であった。

 意外な点は、西洋人の混血と間違われ、《女西郷》と腕白ぶりから呼ばれた貞奴が、写真の均整のとれた体躯(たいく)から想像するよりはるかに小柄な百四十八センチの身長だった事である。比較のために活躍期が重なる貞奴より十三才年少の奇術師天勝が、女性としては大柄な百六十センチ弱。博文が当時の男性の中肉中背で百五十八センチであった。貞奴の小柄な点も、特に後年のヨーロッパでのアイドル的な人気に大きく貢献したと思われる。

 貞奴は二十三年頃まで博文の寵愛を受け、以降は自由の身になった。前年に憲法が発布され、二十三年に国会が開設される時期に当たる。この音二郎に出会う以前、見落とされがちな記録だが、早くも貞奴は役者として舞台に立っている。素人芝居という自覚のために《女優》として貞奴には認識されていないが、五代目菊五郎に教えを請うたほどだから、演劇史の上で見逃すわけにはいくまい。

 事の起りは明治十九年、博文の娘生子の夫・末松謙澄が主唱し、外山正一・福地桜痴・森有礼・渋沢栄一らが発起人となって設立された《演劇改良会》に端を発する。詳細を記すイトマは無いが、末松の、諸外国を参考にした洋風建築の大劇場の新設、興業時間の短縮、花道の不要、チョボ(浄瑠璃)の廃止、装置改良などを主眼とする『演劇改良意見』(明治十九年刊)に、外山の、茶屋制度(註1)・女形・黒衣の廃止と俳優の品行是正、狂言の上品化などの意見を付加した『演劇改良論私考』(明治十九年刊)を中心課題とする、当時の歌舞伎しか無い日本の演劇界にとって驚天動地の急進的意見が、その運動目的であった。しかもこれは個人的結社の意見ではなく、明治政府の鹿鳴館に代表される欧化政策の、ゼガヒでも成しとげねばならぬ意向を背景とした運動体であった。特筆すべきは欧米に倣(なら)い、日本では地位の低かった劇作家の重用を強調している点で、演出家すら居なかった旧劇の世界では画期的な事であった。この演劇改良会の運動に、芸者芝居が関わっているのである。
 この演劇改革は数々の反発と無理もあり、修正を重ねて、民間の協力も仰ぎ、ひとまず目的を達するのに四半世紀を用している。歌舞伎座・帝国劇場の新設なども、その一連の成果であった。音二郎の演劇改革も、これを基盤としているが後述するのでここでは触れない。いずれにしても近代国家日本を誇示し、欧米人に観せて恥かしくない日本の代表的演劇と劇場を造りあげる事が急務とされ、歌舞伎という芸能からエロ(男色趣味・嗜虐趣味・芝居茶屋の遊廓的要素)・グロ(女形・黒衣の異様さ)・ゲテ(花道・外連や怪奇趣味・勧善懲悪のバカバカしさ)を排除し、飲食しながら参観できる古代の饗宴的空間の猥雑さを除去する事が意図された。それらは皮肉な事に、ロシアやヨーロッパの前衛劇が二十世紀初頭に歌舞伎から窃取(せっしゅ)したほぼすべてであった。
 
 註1──大劇場での芝居の升席や、そこでの弁当・酒(当時は飲食しながら観劇していた)の手配、幕間や芝居前後の休憩、早朝から深夜まで(朝六時から夜十時頃までの事もあった。そのため欧米なみの時間帯導入が、改革の目的とされた)の公演のための宿泊、贔屓役者との連絡や饗宴の手配等々、芝居に関るすべての事は芝居茶屋を通さねば出来なかった。一週間日替わりの通し狂言などでは、その期間泊まり込むのが当然だった。《戯場》を「しばい」と読ませたように、役者はもとより芸者や幇間も呼んで遊べる劇場と合体した《遊廓》と考えればテットリ早い。有名役者と接触するためには、下足番から風呂番・売子にいたる五十近い《職種》の劇場および芝居茶屋関係者=《芝居者(しばいもの)》にチップをはずむのが常識だったから、大変な散財であり、《役者買い》(※1)ともなると資産が傾くほどの高額を要した。茶屋制度の廃止は、こうした淫靡で猥雑な影の部分を分離する事も目論まれたと考えられる。

※1──金銭で金満家の有閑夫人が役者や芸人を愛人とするシステム。有夫の場合には法的には姦通罪(※2)該当するが、《役者》は社会的地位として《人間以下》と考えられていたため、相手を《間男》として起訴する事は《役者ふぜい》と対等にはり合う事であり、それは《間男された事》よりも恥かしい事であった。そのため起訴によって成立する姦通罪は、芸人や役者にはほとんど適用されないに等しかった。《役者買い》は芸者などの玄人をはじめ政財界や資産家の夫人・令嬢などによってなかば公然と行われ、そのために芝居茶屋が文字通り遊廓として機能した。むろん歌舞伎の裏面である江戸伝来の陰間(かげま)茶屋として利用されたのは申すまでもない。営業の一端は、こうした裏面にまつわる少なからぬ収入によって成立していたのである。
※2──妻を夫の所有する《物》として財産と見なす法律によって出来た犯罪。窃盗罪と同様に起訴によって成立し、重罪であった。北原白秋の例に従えば、白秋は二年間《入獄》している。有島武郎の心中原因も、愛人の夫から姦通罪をチラつかされたためで、もし起訴されれば有島個人の《入獄》と爵位の放棄にとどまらず、累(るい)が一族全体に及ぶ可能性が有った。相手が藤原義江のような《芸人》のドン・ファンならば、婦人の夫が華族であっても、マッタク問題にされない《罪》だったのである。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源11

話を芸者芝居に戻せば、演劇改良会の運動の一環として、渋沢栄一・大倉喜八郎・福地桜痴などと地元有力者の協力で、貞奴の住む浜田家に近い蠣殻町に有楽館という演芸場が新設されたのが明治二十二年六月。その落成式に慈善芝居が企画され、女形の廃止を主張する会の趣旨に従い芸者達に出演が求められた。貞奴十八才の時である。演目は『曽我討入(そがうちいり)』貞奴は五郎役であった。
 この公演は恒例となり歳末公演が定着し、貞奴は芸者芝居に熱中する。『菊畑』の鬼一法眼、『寿曽我対面』の五郎と敵(かたき)役の工藤祐経、『八幡太郎伝授鼓』の源義家、『川連館(かわつらやかた)』(『義経千本桜』四段目)の狐忠信、『廓文章』の藤屋伊左衛門など、男役の、しかも主役ばかりを貞奴が演じている。五代目菊五郎に教えを受けたのは『菊畑』であるらしい。明治四十四年二月号の『演芸画報』の貞奴の回想によれば、「立役が好きで、いつも他人(ひと)さんが厭がる立役は背負い込んで納っていたものです」──という。どうやら当時は男装が、羞恥につながるかなりエロティックなニュアンスが有った事を感じさせる発言である。同時代の大女優サラ・ベルナールの男装癖などと比較しても、大変に興味ぶかい。「千円位の切符は引受けて、自腹を切って芝居に出て嬉しがって居たものです」──という発言もあり、かなりの入れ込みようが窺える。千円のリスクは当時の中級官吏の約三年分の収入に相当するが、その金額も貞奴には痛手にならない額であったようだ。有楽館は明治二十七年に経営難で閉館しているから、五年間に六公演の芸者衆による≪女歌舞伎≫が演じられていた事になる。確証は無いが、貞奴と同じ芳町芸者の米八が千歳米坡(ちとせよねは)として、二十四年に最初の男女混合劇を企てた≪済美館≫に出演している事から、後に女役者になった米坡が、この芸者芝居に参加している可能性は充分に考えられる。≪済美館≫結成にあたり脚本家の依田学海(よだがっかい)が、舞台経験の無いズブの素人を≪女優≫に仕立てあげたとは考えられないのである。
 また芸者芝居の時代は、貞奴が歌舞伎役者を浮名を流した頃と重なっている。五代目中村歌右衛門の回想に、「あの女は我まま者で、気に入らぬことがあると。どんな名士のお座敷でもサッサと引上げて帰りました。あの女は私と遊ぶ時、いざ勘定となると算盤を取寄せて自分ではじき、必ず割勘にしておりました。人におごって貰いたくないのです」──とあり、ある種の金銭に細かい律儀さに閉口している口吻(くちぶり)だが、俗に言う≪役者買い≫の、芸者の側が役者に貢ぐという間柄でなかった事が読みとれる。歌右衛門が福助時代には貞奴との結婚話もあったらしい。六代目梅幸とも親密だったから、貞奴が仮にどちらかと所帯を持っていたら女優貞奴は誕生しないが、百年以上を経た今日では、歌舞伎界の大名跡(ビッグネーム)のかなりの人々が貞奴の末裔(ちすじ)に成っていたであろう。
 それはさておき、戦後に帝劇で秦豊吉(はたとよきち)(註1)が上演した『マダム貞奴』(註2)では待合で歌右衛門と逢引していた貞奴が、音二郎の部屋に間違って入ったのが初対面という筋書きらしい。いかにも有りそうな話だが、これはフィクション。『旅芸人始末書』では大倉邸の一件をナレソメとしているが、データーが不充分。しかも、どの研究書に当っても、この一件が何年なのかがわからない。『女優貞奴』(山口玲子著)で幾つかの証言をもとに、関東へ進出して来た音二郎一座をタマタマ見た貞奴が、音二郎に興味を持ち、宴席でも顔を合わせるようになり、そのうち貞奴の方が音二郎に夢中になったという論旨だが、事実関係がかなりアイマイで想像の域を出ない。音二郎と貞奴の回想の齟齬(そご)のみならず、数種の貞奴自身の証言にも食い違いや不明瞭な点が多いためだが、その理由が、気恥しさやモノ忘れといった通俗な事に起因するのでなく、何か無理に帳尻を合わせている感じが証言の中にするのである。それが山口著にも波及し、二人の初対面あるいはその後のイキサツについて歯切れの悪さを感じさせる。憶測を最小限度に押さえなければならない評伝のツライところである。
 ただし同著には、川上一座の筆頭幹部であった藤沢浅二郎の、「音二郎が芸者遊びの妙味をたのしみながらも、貞と契りを交わしたのは、中村座の三の替りのあと、宇都宮の大川座へ巡業した時」──という証言があり、少くとも、この時期以前から二人が親しかった事がわかる。時期が確定できる最も古い証言が、この記述なのである。中村座公演が二十四年十月まで二の替り、三の替りを立て続けに上演しているから、現代風に言うと二人の初エッチは二十四年の暮れあたりと考えてよかろう。大倉邸に三日間立籠(たてもこ)る一件は、それ以降と考えるのが、まず順当な推測と思われる(註3)。なぜこうもアリバイ崩しめいた瑣末事(さまつじ)にこだわるかと言えば、同じ頃に貞奴は、五年ぶり東京支店に転勤となった桃介と会っている。愛憎交々(こもごも)の桃介への感情と、音二郎に傾いていく貞奴の心理を解析するのは残された資料のみでは不充分だが、資料を自分なりに秩序だて仮説を立てる事は可能である。そうしないと、何が貞奴をひきつけたかという音二郎の魅力とともに、音二郎が選んだ貞奴とう気丈な女の決意は希薄になると考えるからなのだ。貞奴が《野合(やごう)》でないと強調し抗弁するように──という事は一般的に野合と見られた事を意味するが、捨鉢な済崩(なしくずし)で音二郎と一緒になったわけではないのである。

 貞奴は「満二十歳になったある日」、御座敷で桃介の名前を小耳にはさむ。桃介は二十二年に米国から帰国し、結婚後に北海道に赴任。二十四年一月に長男が生まれ、東京へ転勤になっていた。貞奴は七月十八日生まれのため「満二十歳」なら二十四年七月以降にあたる。「そんな折」(山口著の表記に従う。二十四年七月以降と考えられる)上野池之端で催された母衣引(ほろびき)の競技会で、貞奴の騎乗する馬が引く布製の母衣(ほろ)が池畔の柳にからまり、煽(あお)りをくらって貞奴は落馬してしまう。幸い怪我は無く脳震盪(のうしんとう)だけであったが、そこに居合わせたのが桃介であったらしい。『女優貞奴』ではこの場面のみ出典が明記されず、しかも、「思いがけない再会に、貞は痛みを忘れた。目を閉じた貞の耳に、近くのテントまで静かに運ぶように指図する桃介の声がきこえ、暫く休むと自力で歩けた」──という風に内的心理まで描かれる小説風の表現になっている。山口の評伝としての認識に疑問を感じるし、「初恋の桃介は、貞が当面する結婚問題の相談相手になりかわった」──という結論にも、客観性が感じられず疑問が残るが、桃介との邂逅(かいこう)は事実であるらしい。
 

註1──明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。

註2──越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3──「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源12

 『演芸画報』明治四十一年一○月号掲載『名家真相録』の貞奴の談話によれば、「私も一風変って居りましたので、殊に書生肌の人が好きでもありましたし、川上ならば生涯役者をしても居まいと思いましたのです、又私の身分で真面目な所へ行こうと言った所が、先き様で貰って下さりますまいから、一層何だかわけの分らないような人の所へ行きたいと言う決心もありました」──と語っている。また同じ発言中で、音二郎を知ったのは『板垣君遭難実記』(明治二四年)を養母と見に行ってから──とする一方で、音二郎と《いっしょになってしまった》のは明治二三年だとも言っている。二三年なら横浜と芝開盛座公演で別演目である。「女優貞奴」の著者山口玲子はわずかに《疑念》をさしはさみながらも、「その折に知り合った可能性もあるけれども、これは多分貞の記憶違いであろう」──とし、そして「音二郎という存在を知るなり、殆ど間髪をおかず、恰も電光石火の如く「いっしょになってしまった」」──と続けている。その理由を、芸者という職業を環境から、政府高官や実業界の名士あるいは梨園(歌舞伎界)の御曹司達のような名声も地位もある人間よりも「素寒貧の名もなき『書生』といっしょになって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった」──とし、その理想像にピッタリだったとする音二郎の「荒けずりで硬骨漢」の未完成な魅力を強調する一方で、「けれども貞が音二郎に惹かれたのは、そうした後から考える理由づけ以上に、直感と無分別に衝き動かされてのことだったかもしれない。とにかく貞は音二郎を見るや、たちまちにして、その魅力のとりこになってしまった。音二郎のどこにに惹かれたのでもなく、まして新演劇の『板垣君遭難実記』や『オッペケペ』を認めたのでもなく、音二郎という年限の出来合いに、絶大な関心を持って、体当たりしていった。強いて言えば、音二郎の標榜しちゃ『書生演劇』の書生という自称に、多少引っかかった気味がないでもなかった」──という、どう読んでも破綻した結論を導き出す。しかし情報を鵜呑にして二人の経緯を追っていくと、どうしても矛盾やはじょう破綻が生じて来るのだ。これは山口のせいばかりではない。貞奴の発言に従うならば、書生上りの地位も財産も無い、ほとんどの青年が魅力的な対象となってしまう。しかも貞奴は生娘ならね一流の芸者なのである。その貞奴が急に音二郎に夢中になったのだから、下世話な理由からだとは思えない。他に無い魅力か、あるいは、その急変に、別サイドの理由付けが必要となって来る。
 劇作家の長谷川時雨は、貞奴が福助(後の歌右衛門)から音二郎に乗り替えたという下卑た巷説を打ち消すように、讃仰おしみない貞女として貞奴を謳(うた)いあげた『近代美人伝』(昭和十一年)で、「金子男(だん)が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上に快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて饗応(きょうおう)したことがある。それが縁で浜田家へも出入するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛に仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように纏(まとま)った仲である。」──と、面識も有った貞奴が読む事を意識した上で、破綻なく二人の経緯を書き記す。時雨の文面の表層を読むかぎりは、いささかの彼女の疑念も感じとれない。しかし穿(うが)った見方をすれば、むしろ理路整然としすぎている。あるいは時雨が文章の表層を裏腹に、読者の裏目読みを期待して表(おもて)の平仄(ひょうそく)を合わせているかに思えてくるほどである。
 金子堅太郎男爵(註1)は音二郎と同郷の福岡出身で、おそらく以前から音二郎の後援者であったと思われる。注意すべきはこの経緯を鵜呑にするにしても、音二郎・貞奴の出会いが金子の御膳立によるもので、背後に伊藤の意向がうかがえる。秘書であった金子が伊藤に相談なしに単独行動をとっているとは思えない。明らかに、ある計画性が感じられる。その事に気付かない時雨では無いし、裏目読みをするとキッチリ無駄なくそのように書いてある。
 さて、これより以前に桃介との再会があったと仮定し、焼けぼっくりに火がついた場合を想定して、私の仮説をおし進めてみよう。桃介は計算高くはあるが物事に淡泊で、それでいて冷血漢でもなく、貞奴に対する愛情も男性中心的見解をのぞいては嘘ではない。ただしその場合、愛人としての限界が、《正妻》ではなく妾宅に囲われる身である事は明らかであり、前途は有望ながらもまだ二十二、三才の桃介は、貞奴を囲い者にするには経済的に無理が有った。一方、愛人の契約が終ったとは言いながら、博文が貞奴の後盾であるには違いなく、少々諭吉に怨みの有る伊藤としては、自分の傘下の貞奴を諭吉の養子の桃介に取られ、巷の話題となる事は、何としても防ぎたかった筈である。養母の可免にしても、もうすぐ適齢期を過ぎようとしている貞奴だけは《妾》でなく《正妻》にして、ゆくゆくは花柳界の外へ出したい考えが強く有った。数年前に貞奴を袖にされた母親としての恨み辛(つら)みも累積されており、気丈で気位の高い可免が、桃介と貞奴の関係の再燃を許すとは考えられない。博文を可免の利害はすべての面で一致していた。そして貞奴の愛情の対象を桃介からそらすために夫の候補者として立てられたのが、かつての桜痴の帝政党の党員の音二郎であったと考えられる。音二郎は寺の小僧から諭吉に引きとられ福沢家に寄宿する慶應義塾の学生となった経歴もあるが、門限破りに加担して方遂された事も有って、諭吉との関係は切れていた。桃介よりも四才年長の音二郎は、役者ながら演劇を《手段》と考え、役者で終るつもりは毛頭なく血気盛んである。政財界の老獪(ろうかい)で捕え所のない老人達や、趣味は洗練されながらも芸者には見慣れた歌舞伎役者達には無い、荒けずりながら明快な音二郎の気質を、貞奴には新鮮な驚きであり魅力であった。他に、後年音二郎の劇作も書いた桜痴の後押しが有った事も考えられる。この計画をうまく誂(あつら)え浦で演出したのが金子男爵であった。そして貞奴の桃介への思いを断たせるために、金子・可免・音二郎・貞奴の膝詰談判で立籠(たてもこも)ったのが大倉の別邸の一件だったと考えられる(註2)。そこでは金子・可免による貞奴の説得はもとより、今後の音二郎の展望や、伊藤・金子人脈による援助の相談、歌舞伎役者等との浮名の精算も含めた、以前から音二郎と親しい関係が有ったとする、偽のアリバイ作りめいた口裏合わせ等が成されたと私は考えている。何度かの行き来が有ったにせよ、二人の婚約が急転直下であった事に間違いは無い。音二郎・貞奴ともに赤新聞のゴシップ記事の好餌であったから、現代のアイドルと同じで世間の眼を逃れて交際が有ったとは考えられないし、隠す必要も無かったのだから、交際期間も短く、逢瀬も数少なかったのが本当であろう。このように仮説を立てると、実証は不可能だが、ほとんどの矛盾は解けて来る。残る疑問は、貞奴が入れ揚げるまでになってしまう音二郎の魅力である。
 

註1──明治二十五年生まれ。七世松本幸四郎の甥。東宝を経て帝劇社長。翻訳家・随筆家としても著名。『西部戦線異状なし』『ファウスト』の名訳の他、丸木砂土(まるきさど)の筆名で西洋ダネの好色随筆多数。芸能、特に見せ物に造詣が深く『昭和の名人芸』『明治奇術師』など研究書も多い。誤解防止に、戦前の翻訳家、特にフランスや中国文学者の多くは帝大教授を含めて、好色随筆が得意であった。秦だけが特異なわけではなく、多くの大家が艶笑小咄やポルノグラフィーを、むしろ誇らしく紹介していた。

註2──越路吹雪・古川緑波(ロッパ)は浅草軽演劇《笑いの王国》出身。本名は加藤姓で養子だが男爵。生家は浜尾家。父浜尾新(あらた)は子爵で貴族院議員。その浜尾四郎は検事で探偵作家。緑波の兄の息子が侍従長であった浜尾実。
註3──「以降」とすると、連載六回目の、大倉邸の一件を初対面の可能性アリとする私見と矛盾するが、矛盾はそのままに残す。貞奴の証言が、二人の馴初に関してかなり作為的なために、謎めいた食違いをきたす事にも起因する。

村上裕徳 日本現代舞踊の起源13

 「あの人は性来非常に陽気な質です。非常に嘘つきで恰度狐を馬に乗せたような人、いまここで嘘を言ったかと思うと又向うで嘘を言うという調子でした。だがあの人は女にかけては一種の魔力とでも言うのですか、それは色男ですよ」──明治四四年十一月十一日『東京日日新聞』掲載の烏森《浜の家》女将の談話による音二郎評である。また劇評家の水谷幻花は、「ヤニを嘗(な)めた青大将の様な顔はしているが、川上もあれで一寸色男」(『演劇風雲録』大正十一年刊)──と評している。
 ところで音二郎は、写真を見てもいわゆる美男子というタイプではない。いつもどこか笑っているような顔は、相手をなごませる愛嬌を感じさせるが、アメリカで日本のプリンスではないかと誤解されたという桃介の俗事から超然としたような気品のある容貌と比べると、メンクイの女性連からは何故に貞奴が夢中になったのかと疑問になって来るであろう。ただし、美男子というなら桃介に限らず貞奴の贔屓(ひいき)客であった歌舞伎役者なども該当するに違いなく、幻花や浜の家女将の言う「色男」ぶりは、それとは別の魅力となって来る。
 ところで一般的な音二郎の評価は現在でも、場当たり的なケレン味と即興の妙味だけの、主に《オッペケペ》だけが当たった、山師でホラ吹きの人物のように考えられて来た。倉田喜弘の『明治大正の民衆娯楽』をのぞいては、本当は時代風潮を先どりし、そうした状況を作りあげたのが音二郎であるにもかかわらず、時代に便乗し歴史に残ったダケのように記述されることが多い。まるで雑芸人のような評価も少なくない。音二郎から十年前後を経て始まる坪内の歌舞伎改革や小山内の新劇運動に比べて、理論的な裏付けが明確でないために、アカデミズムの世界では先駆者として《仕方無く》名を記しても、芸術的評価としては無内容の娯楽、あるいは肯定的見解でも社会風刺の芸能として《処理》される場合がほとんどである。しかし山師もホラ吹きも同時代に数々居ながら、理論より先に行動に移し時代を先どりし、蜘蛛の子を散らすように拡がっていく明治を舞台にした現代劇としての大衆劇を、運動として拡大させる駆動力であり起爆剤であり続けたのは、毀誉褒貶(きよほうへん)ありながらも、やはり音二郎だった。また《オッペケペ》で芸者や権妻(ごんさい)(妾)などの観客を揶揄(やゆ)しながら、そのカラカイの相手からも愛されるような愛嬌のある魅力を、多くの芸人達は持たなかった。それのみならず演劇界を変革するために、劇場そのものから変え、環境を変える事で観客の意識のありようを変え、そこでやっと新たな演劇を作る事が可能になると考えていたのは、当時の日本に数人にすぎない。しかもそれを、最も早く実践したのは音二郎であった。チョンマゲでない断髪の劇を、一般大衆が違和感なく観る基盤を全国に波及させ、音二郎自身にも本邦初演が数あるが、西洋演劇の一般普及に貢献した、言わば音二郎は、そのパイオニアであった。むろん時代状況による限界もあり、時期尚早であったり経済力の面で失敗もあったが、そこを持ちまえのタダでは転ばぬ向上心と、失敗をも次へのステップとする楽天的な陽気さで、音二郎は明治の演劇界をリードしていく。この現状に甘んじないで利害を離れて現実変革を成そうとする新精神は、周囲からホラ吹きや山師と叩かれもしたが、確実に同時代の誰も考ええないような、他の人が持っていない音二郎の魅力であった。また、その大風呂敷のホラも、弁舌さわやかで軽快かつユーモラスな音二郎の話術にかかると、妙に現実的な迫真力を帯びて来る。そうした意味で、金子堅太郎が言うように、まさしく音二郎は「快男児」であった。それらの魅力に、貞奴はコロリと参ったのであろう。
 二人が正式に結婚するのは明治二八年だが、これから貞奴は音二郎の所に通いつめ、芸者勤めを続けながら、一座ぐるみの面倒をみて、晴れて音二郎と結ばれる日を心待ちにする。いっぽう人気者になった音二郎は、堅物と思いきや、後年(明治四三年三月『俳優鑑』)のアンケートに「娯楽──芸者買い」と返答するように、日本橋の小かね、新橋のとん子や清香など、現代で言うとアイドルであった花柳界の名妓と浮名を流し、そのゴシップは新聞を賑す事しきり。貞奴も気がかりであったろうが、藤沢浅二郎(音二郎の片腕)の回想によれば、「奴は世間の嘲笑の的となり、座敷へ出ても冷やかされる。可愛い男を一人前に仕上げなければ私の一分(いちぶ)が立たないと力んで」、浮気については眼をつぶり、音二郎の男気を見込んで身代一切つぎこみ、この何に成るかわからぬ男の野心達成のために、縁の下の力持ちとなって協力する事になる。
この頃の貞奴は、後に自分が女優になろうとなどとは露ほども考えていない。